次の写真は、フリーメーソン陰謀論者などの間で、幕末の志士から維新までを彩る人々が一堂に会したものであり、明治維新はフリーメーソンが背後で操っていたという陰謀の証拠写真とされている。しかし、巨大陰謀論のビリーバー以外は、それがただの与太話に過ぎないことを直感的に理解できるであろう。

各人物が一体誰と解釈されているかは、陰謀論者のサイトで探していただくとして、大物をざっと見ていこう。まず、明治維新はフリーメーソンの八百長である、というからには仕掛け人となる西欧のメーソンが居なくては始まらないわけだが、それが中央にいる西欧人親子。オランダ人宣教師にして、日本では英語塾を開いていたフルべッキとその息子である。
以下ビッグネームを挙げていくと、写真を正面から見て・・・
勝海舟・・・・・・・・・・左端に立っている人
後藤象二郎・・・・・・勝の隣の隣の隣で一番後ろの人
小松帯刀・・・・・・・・フルベッキ子供の左上でデンと立っている人
伊藤博文・・・・・・・・小松帯刀の左に立っている人
西郷隆盛・・・・・・・・小松帯刀の右の一番ごつい人
大久保利通・・・・・・西郷のすぐ左にいる頬がこけた人
黒田清隆・・・・・・・・最後列の右寄り、頭ひとつ高い人
陸奥宗光・・・・・・・・一番右に立っている人
桂小五郎・・・・・・・・一番前で腕を組んでいる人
大村益次郎・・・・・・桂小五郎の左後ろにいるデコの広い人
中岡慎太郎・・・・・・桂小五郎の真後ろにいる人
大隈重信・・・・・・・・中岡慎太郎の右で頬を膨らませている人
坂本竜馬・・・・・・・・前列で座ってる人達の右から4番目の人※31歳ですが・・・
高杉晋作・・・・・・・・竜馬のすぐ上にいる人
明治天皇・・・・・・・・フルベッキ息子の下の小顔の人※13歳の頃から陰謀に加担!
と、ざっと見ただけでオールスターである。ぜひ光栄のゲームで再現したいものだ。
しかし、これだけの人物が一堂に会する機会などありえない。司馬遼太郎の小説を読むまでもなく、日本人にとっては常識である。
だからこそ―原田実氏の言葉を借りれば―「ありえないことが写っているからこそ、そこに真実がある、といいだす人が出てくる」わけである。そして全くその通りの展開になっている。
というわけで、薩長同盟だって大政奉還だって、もちろん写真が撮影されたとする慶応元年(1865年5月〜翌2月)にはシナリオが出来上がっていたという、巨大な陰謀の証拠写真になってしまったのだ。
そう、何を隠そうフルべッキや坂本竜馬がメーソンであり、かつ維新はメーソンが企画したという陰謀論の根拠はこの写真によって裏付けられたのである。
さて、陰謀論はさておき、この写真の正体はなんなのだろうか?陰謀論者の場合は、好き勝手に吹聴すれば証明したことになるので、ちまちま実証する必要がない。しかしその由来を探るとなると実に難しいではないか。
しかし、原田実氏が綺麗にまとめ、この件を解明しているので、以下に転載させていただく。
「この写真の正体なのですが、初出は『太陽』(博文館)明治28年(1896)第一巻第七号に「維新前の長崎洋学生」の題で掲載されたものです。その後、この写真は幕末・明治関係の資料にしばしば転載されたのですが、この青年たちについては佐賀藩致遠館の学生とか、長崎海軍伝習所の生徒などの諸説あって定まっていなかった。
特定できるのは中央にいるのがフルベッキ博士とその息子だということのみ、正確な撮影時期も不明、どこの学生かも不明、撮影者も不明、という単に珍しい写真の一点にすぎないものだったのです。ところが1974年、この写真の青年44人の内、24人が薩長土肥の勤皇の志士や尊皇派の公卿に特定もしくは推定できるという説が現れた。
この説を唱えた歴史研究者は、この写真は慶応元年、五公卿の大宰府落ちに協力した勤皇派と、その年、小倉から鹿児島に帰藩する途上の西郷隆盛一行とが長崎で落ち合った際のもので、撮影者は当時の有名な写真家、上野彦馬であろうとみなした。
それはあくまで一研究者の推測にすぎなかったわけですが、以降、この写真には慶応元年・上野彦馬撮影という由来がついてまわるようになったのです(以上の経緯は芳即正編著『大西郷・謎の顔』著作社、1989、にくわしい)。ところがこの写真が出回るうちに、その中に維新の志士たちだけではなく、勝のような幕臣の顔まで見つけてしまう人がでてきた。
こうして、この写真は、慶応元年、すでに勤皇派と勝ら幕臣そしてフリーメーソンの間で明治維新のシナリオができていたという証拠写真としての意義を与えられていくのです。
私がはじめてこの写真を知ったのは、1984年頃、シャディ発行の「商工毎日新聞」(業界紙のような名称ながら、内実は『竹内文書』とユダヤ陰謀論の普及紙、現在は廃刊)でとりあげられていたのを見たことによります。
さらに後年、故・鹿島昇氏により、ただ一人、それまで「特定」がなされていなかった人物は、若き日の明治天皇である、という説がだされ、こうして写っている全員が「特定」されるにいたったのです。こうして、由来不明の写真は、明治維新の真相を物語る貴重史料へと成長を遂げまた。1974年の一研究者の推測は、その研究者自身の思いもよらなかった方向へとこの写真を導くことになったのです。」 [原田実、『維新の群像2』mixi、2005年4月13日] |
アウゥ… ショボ そもそも慶応元年とすると、人物の年齢と顔も微妙に厳しいところがある。撮影時期と撮影場所についての正確な情報はないが、手前の石畳(のある撮影場)から明治に入ってから、写真場で撮影されたものではないかと推定できるようだ。そうなると、当然だが竜馬も高杉晋作も登場することはない。
さらに、竜馬メーソン説などは噴飯ものである。メーソンは入会にあたり、非常に長い儀式を全て英語で行うわけだが、竜馬は長い長い英語をきちんと発音できたのであろうか?しゃべることができたのだろうか?
日本語で儀式ができるようになったのは戦後のことであるというから、当時の「秘密結社」フリーメーソンに入るためには、堪能な英語が必須だったのである。初代日本人メーソンが西周(実在、客観、哲学、などの訳語を作った人)だったことを思い返そう。
こういった考証一つとっても「明治維新はメーソンの指導に行われた八百長である」という巨大陰謀論には不利に働くのだ。
歴史における証拠の収束的性質ということを考慮すれば、なおさら「明治維新八百長説」はしょぼいものになっていくのだった。より詳しい情報は『トンデモ日本史の真相』を参照。
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