科学的懐疑主義 Scientific skepticism
科学的懐疑主義(scientific
skepticism)という言葉は、日本ではあまり馴染みがないが、少なくとも海外では、WikipediaなどにScientific skepticismとして独立した項目があるなど、哲学的懐疑主義と区別された立場として認知されている。我々が共感し、理解するのはこの科学的懐疑主義である。
2008年12月には日本語版のウィキペディアにも転載された。
「 科学的懐疑主義または合理的懐疑主義とは、経験的な証拠が欠如している主張の真実性、正確性、妥当性を疑う認識論上の立場、および科学的・日常的な姿勢。
実際には、科学者の通常的な議論や研究よりも、主流の外部にあると思われるような理論や主張の検証にもっともよく用いられる。科学的懐疑主義は哲学の懐疑主義とは異なる。厳格な哲学的懐疑主義は世界の性質を知るための我々の知識や能力も疑う。科学的懐疑主義は妥当な証拠を欠いていると思われる主張に反対する一方、批判的思考と帰納的推論を利用する。ポール・カーツが「The
New Scepticism」で科学的懐疑主義を詳述した。」
「 科学者同様、科学的懐疑主義者は信仰、逸話や伝聞を受け入れたり、反証不可能な概念に頼るよりも、立証可能性や反証可能性にもとづいて主張を評価しようと試みる。懐疑主義者はしばしば彼らが信じがたい、疑わしい、一般的に認められた科学理論や知識に明らかに反すると感じる主張に注視する。これは科学的懐疑論者と専門的な科学者の間の違いである。科学者はそれぞれの分野で作られる仮説を検証するか、立証するか、反証しようと試みる。科学的懐疑主義者は風変わりな主張が自動的に即座に拒絶されなければならないとは主張しない。そうではなくて彼らは超常現象や特異な現象は徹底的に検証されなければならず、尋常ではない主張は有効であると受け入れられる前に、相応の尋常でない量や質の証拠が提示されなければならないと主張する。」 『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) 科学的懐疑主義』
つまり哲学的懐疑主義を「伝統的な学問としての哲学(狭義の哲学)に入る懐疑主義」とするならば、科学的懐疑主義、あるいは、一般的懐疑主義(Ordinary Skepticism)、合理的懐疑主義(Rational
Skepticism)という立場は、非合理批判の勢力や活動の思想性を意味するラベルといえるものである。
そのような科学的懐疑主義について理解するためには、科学的懐疑主義による活動が登場する必然性(それは20世紀中盤以降のおもにアメリカの大衆文化にある)など踏まえ、活動としての実際的状況を知ることで、理解すべきである。
だが、まずは科学的懐疑主義についての一般的な説明をおこないたい。
まず科学的懐疑主義と哲学懐疑主義との主要な相違点は、なによりも関心領域の限定のされかたであり、関心の持ち方である。科学的懐疑主義のそれは、哲学的な話題よりも、超常的であったり疑似科学的な主張であったり、関連する領域に知識を持つ者にとって、額面どおりに受け入れるには極めて胡散臭いと感じる主張の真偽や妥当性にある。
逆に、知識は真理足りえるか、絶対真はありえるか、あるゆるものを疑い残ったものが云々といった議論は、科学的懐疑主義の主要な関心ごとではない。
よしんば「われ思うゆえにわれあり」が「われ重いゆえに割れたり」のように深刻な誤訳で伝わろうとも、科学的懐疑主義にとって何も影響しないだろう。
さらに言えば、科学的懐疑主義の背景にある思想は世俗的ヒューマニズム
(Secular humanism)であり、興味の区分としてはデバンキング
(Debunking)と、クリティカルシンキング
(Critical thinking)の実践と普及とする傾向が、より強くなっている。
科学的懐疑主義の意味する科学的(Scientific)の意味には、一つには自然主義的10な世界観の採用がある。次いで、科学的懐疑主義における懐疑が、結論ではなく、暫定的な結論(provisional
conclusion)に至るための方法であり、自然科学が成立する過程に見て取れる、経験主義的、懐疑主義的な、可謬主義の要素を受け入れているというところにあるだろう。
そして同時に、新しいアイデアはテストされ、どれほど素晴らしい閃きであろうとも、それが根拠のないアイデアのままで、何も証拠を提出できないままならば、相手にされないという前提や、査読制のある論文誌への寄稿という発表ルートの存在など、その背後にある合理性
までをも含むものである。
要するに「科学的」に含まれる意味は、「誤りを排除する知識の淘汰として機能することで、より確からしい知識が発展していく構造を可能足らしめた合理性」と表現すること
ができる。
そのため、科学的方法を意識している懐疑論者は(科学的事実と同じ意味での)「暫定的な結論」にいたる理由を、信頼、権威、直観、願望、聖典などに頼るのではなく、証拠によって判断していると主張する。
たとえば、懐疑的であることの意味について、Skeptics
Societyのマイケル・シャーマー(Michael Shermer)が説明している。
「 懐疑的であることの意味はなにか。いくばくかの人々は、懐疑主義は、新しいアイデアの拒絶であり、もっと悪い場合は、懐疑論者とは、現状に挑戦するどんな主張も受け入れない気難しい連中や皮肉屋であるかのように信じています。
でも、それは間違いです。懐疑とは、主張に対する暫定的なアプローチであり、言い換えれば結論ではなく方法です。
・・・懐疑論者が、懐疑的であるといういうとき、それは、信じる前に証拠が必要だということです…現代の懐疑主義は、科学的方法に体現されていて、科学的方法は、自然現象を自然主義的に説明するよう定式化し、テストし、そのためにデータを集めることを伴います。そのうえで主張が妥当だと認められれば、事実とされます。
しかし、科学において全ての事実は、暫定的なものであり、挑戦をうける可能性があります。懐疑とは、この意味で暫定的な結論にいたる方法なのです。
…ダウジングやESP、特殊創造説など、いくつかの主張は、結論をするに十分なほどテストを受けている(そして失敗してきた)ため、有効ではありません(not
valid)。
催眠や、言語の起源、ブラックホールなどは、テストされましたが、決定的でないので、暫定的な結論に達することができるまでは、仮説や理論の定式化とテストを続けなくてはなりません。」
[Michael Shermer,1992」
元は『Skeptic』誌に掲載されたものだが、What
is a Skeptic? (Skeptical)にて(ほぼ同じものを)読むことができる。
これは、懐疑的であることが、結論としての位置ではなく、方法にあるということを強調する文脈で述べられている。
つまり、科学的方法が適用可能な主張に対し、事実とするのが妥当であると結論するにせよ、積極的な否定をするにせよ、いまだ判断不能とするにせよ、結論は、証拠によって判断されるということを意味している。
シャーマーの説明によると、ダウジングの場合、結論するに十分なほど、何度もテストに失敗しているため、積極的な否定という結論を採用している。その実験に不備がないならば、これは当然、科学的であるし妥当であろう。別の決定的な証拠が、その疑念を晴らすほど立派に実証される余地も、当然ある。否定的な結論とは究極的に「その可能性が相当に低そうだ」という前提を持つからである。
また、ブラックホールに関する理論は、結論できるほど決定的ではなかったため(蓋然性の見積もりは個人的なブレがあるにせよ)結論は中立的に保留されている。これもまた科学的に妥当である。
他にも、このことを強調した懐疑主義の精神性については、ポール・カーツ(Paul
Kurtz)が、CSICOPを結成する1976年に論じている。
「「科学的態度vs反科学および疑似科学」より
…日常生活のほとんどないしあらゆる領域で、全般的に科学的態度を育み、信念を評価検討するに当たってはできる限り批判的知性を活用し、その信念が証拠に基づくものだという点を力説する必要がある。その結果として、証拠が十分ない場合は、できれば判断を差し控えるべきであるとする基準が導き出される。
われわれの信念は、蓋然性の度合いに基づく試験的仮説と考えるべきであり、絶対的かつ最終的なものと考えるべきではない。われわれは、(その昔、プラグマティズムの創始者チャールズ・パースが指摘したように)誤謬性の原理を念頭に置かなければならない。この原理では、われわれの信念は誤っている可能性があると考える。われわれは、自らの信念を、新たなる証拠や理論に照らして、必要とあらば喜んで修正する用意がなければならない。
科学的態度は、したがって、超越的現象にまつわる主張の検討を、ア・プリオリに排除することではなく、先入見のない自由な立場からの探求を継続することである。
たとえば超常現象の研究に従事することを拒絶するものではないが、このような研究は果たして信頼に足るものであろうか、厳密に行われているのであろうか、証拠よりも憶測を優先させていたり、信じ込もうとする意思に基づいて結論を下していることはないであろうか、と問う権利を当然のことながら有するのである。」
「The Scientific Attitude vs. Antiscience and Pseudoscience」
Paul Kurtz, 『The Humanist』 July/Aug.1976,pp 27-31
しかし、たとえば、空中浮遊が可能だという人物の主張に対して、信頼のできるテストがされておらず、ただ信奉者が、正当な理由もなく実験を拒否している状況だった場合、科学的で妥当な判断はどういったものになるだろうか?
少なくとも、信頼のおけるテストをするまで中立的に保留するという考えはおかしい。
そこで、科学が機能するためには、立証責任というルールがあり、少なくとも正統的な科学の営みにおいては、インチキ臭く検証を拒否している空中浮遊の主張は、重力理論の見直しを検討させる力もなければ、最初から相手にされないわけである。
懐疑は結論ではなく、方法であるという意味は、こういった認識を踏まえている。
しかし、これだけでは不自然な気がする人もおられよう。
なぜなら、懐疑論者の関心は、空中浮遊が可能だという論者の主張に対し、無視するだけではなく、可能ならば十分な根拠による積極的な否定論を出したいように思えるからである。
そして、現実問題として、懐疑論者の興味はそこにある。
インチキくさいので検証されるまでは否定的な判断をしておく、というのは、情報の受け手としては、合理的であり、妥当な判断だが、それよりも強い主張をするには、立証責任どうこうよりも、個別の議論が必要
なのである。
また、マイケルシャーマーは、科学的懐疑主義を説明する例として、ダウジングやブラックホールを挙げているが、前者はいかにも懐疑主義が好きそうな話題である一方、後者のような科学的命題を、懐疑論者が懐疑的に検討し、懐疑論者としてなんらかの発表をする
などということは、現実には起きていない。
このようなギャップから、しばしば懐疑主義は「口だけ」のような批判を受けることがある。
実際に、口だけだという場合もあるのだ。
だが、懐疑論者も人間だ。
それに、そんなシャーマーやカーツが、ダメなのかというと、そういうことではない。
たしかに理想化した説明をしがちかもしれないが、懐疑主義の存在意義や、背景を知ることで、彼らの説明の文脈が、正しく理解できるだろう。
そもそも、科学的懐疑主義という立場は、誤解をおそれずにいえば、必ずしもひとつの思想体系としての哲学的立場を意味しているわけではない。
実際に多くの懐疑論者は、哲学的懐疑主義だけでなく、科学的懐疑主義がなんたるか、といった科学的懐疑主義そのものについての哲学にも関心が薄い。
その理由は、科学的懐疑主義が、哲学的議論を経て誕生した哲学や思想というよりも、むしろ、似た観点から非合理批判を行う立場の総称として、ラベルの役割を果たしながら浸透し、成立していったという事情に由来する。
懐疑論者は、認識論について必要以上の関心を持っていないし、せいぜい哲学としての深化を求めない程度の緩い認識論か、あるいは認識的相対主義などの疑似科学的な認識論の検討までが守備範囲である。
この状況を理解するには、科学者が科学哲学に無関心である場合が多々あるのと同じ理由で、懐疑論者もまた、科学哲学の「哲学」と同じ意味での懐疑主義「哲学」については無関心であると考えればよい。
そのため、結論からいえば、懐疑主義の立場を整備する試みもあまりされておらず、科学的懐疑主義そのものについての解説は、ポール・カーツ(Paul
Kurtz)の著書『New skepticism』など、少数の文献しかないうえ、日本語でのきちんとした解説はないというのが現実である。
そんな事情を反映してか、呼称も一定ではなく、科学的懐疑主義(scientific
skepticism)のほかに、哲学畑の側からは一般的懐疑主義(ordinary skepticism)、マイケル・シャーマーよる合理的懐疑主義(rational
skepticism)などがあるわけである。
もっと露骨にいえば、懐疑主義といっても、純粋な哲学ではなく、心霊主義、疑似科学、超常現象、超能力、迷信など、非合理的な信念として分類されるような領域にある怪しげな主張
の懐疑的な調査や、クリティカルシンキングの実践や普及が興味の対象であり、非合理的信念が跋扈する社会での抵抗勢力の名札といってもよいだろう。
とくに既存の知識からはにわかに採用しがたい主張に対し、「信じたい」だの「夢やロマンがある」だの、「聖書に書いてある」といったものを抜きに、事実の探求という目標を優先し、主張の異常性にみあう程度に懐疑的な視点で真相を解明することが重要
だという態度なのである。
また、懐疑論者が要求する真実性の水準は、通常の科学社会や、実社会での重要な犯罪捜査に要求されるレベルの真実性であり、狂信的な宗教者が聖書に期待するような、絶対の無謬や、完全無欠の絶対真という、居心地の良い足場は放棄している。
全ての科学的主張が、究極的には暫定であるという意味と同じく、懐疑論者にとって、事実は暫定的で、全ての知識は、新しい根拠によって修正される可能性を残している。
もちろん、これは「究極的には全てが仮説なんだから本当かどうか判らないじゃん」という文脈ではないので注意したい。たとえばニュートン力学が、近似としても根本的に通用しなくなる可能性は、事実上ありえないように思えるが、それでさえ、物理法則の斉一性の原理が、たまに狂うという可能性は永久につきまとう。
なので、絶対的真理の放棄とは、その程度の話であり、検証に耐え抜き、科学の知識体系に組み込まれたものは、驚くほど有用である(なかには理論の予言と観測結果が小数点以下10桁以上まで合致するものもある)という現実とは矛盾しない話であることは、強く強調したい。
さて、次は、先に挙げた科学的懐疑主義の説明が、どういった文脈にあれば、現実に沿った形になるか説明しよう。
そのためには、現代の懐疑主義が誕生する、歴史的な経緯が重要である。
ガードナーからCSICOPへ(The
modern skeptical movement)
現代の懐疑主義の活動は、序論で述べたように、1970年代のアメリカを中心に、圧倒的な非合理主義の台頭に抵抗する勢力として登場した。
しかし、似た活動の起源は古く、17世紀スピノザによる聖書批判や、啓蒙時代の知識人たちが迷信と戦った時期まで遡れるかもしれない。
あるいは、19世紀から20世紀初頭の心霊主義ブームにおいて、霊媒の虚偽を暴く活動も、やはり我々と近い存在である。とくに、ハリー・フーディーニ(Harry
Houdini)11やウィリアム・マリオット(William
marriott)12は、現代のデバンカー(Debunker)の先駆けである。
その他にも、哲学的懐疑主義(Philosophical
skepticism)で紹介したヒュームは、19世紀に、懐疑主義の立場から奇跡批判をおこない、ポール・カーツ(Paul
Kurtz)やマイケル・シャーマー(Michael Shermer)も、しばしば引用している。
だが、現代的な懐疑主義の活動(The modern skeptical
movement)という意味では、1952年のマーチン・ガードナー(Martin Gardner)を起源とする方が、より適切に思われる13。
1952年に出版された『奇妙な論理』(上),(下)は、疑似科学領域のデバンキングを、面白おかしく体系的に論じた最初の研究となり、後の非合理批判への大きな影響を持つことになった。
そこで貫かれた姿勢は、H.L.メンケン(H.L.Mencken)14による「抱腹絶倒一回は三段論法千回に勝る」を地でいくものとなっている。このことにより、疑似科学批判に「科学者の義務」だけでなく「楽しい趣味」という要素を付け加えた功績は、非常に大きい。
もっとも、ユーモアによって非合陣営を駆逐する方法は、啓蒙時代にジョナサン・スウィフト(Jonathan
Swift 1667-1745)などが用いており、意外と由緒正しい戦略である。
スウィフトに目を付けられた占星術師は気の毒だが(自業自得ともいうが)、ライバル占星術師を演ずるスウィフトによって、新聞紙上で死に様を予言されたあげく、死んでないのに、死んだことにされてしまうなど、もう立ち直れないほど痛々しい嗤い物にされている。
しかし、そういったユーモアが、本格的な活動の火種になるには少し時間が開く。
そもそも、19世紀にはじまる心霊主義の大流行以降も、アトランティス学や、ムー大陸、心霊現象、神智学、ピラミッド学といった、いまだ何一つ進歩のないたわ言は存在していた。しかし、それが、より本格的に進行するのは、1970年15に、コリン・ウィルソンの『オカルト』が大ブームとなり、さらには元舞台マジシャンのユリ・ゲラーが大ブレイクするあたりになる。この時代は、オランダからは、心霊捜査官のクロワゼットが登場し、ライアル・ワトソンは『生命潮流』を出し、ニューエイジなども跋扈する。
しかも、それらの主張は、いずれも真偽に無頓着という有様で、メディアは一方的にヨタを垂れ流すばかりであった。この時代は、まさに世界的な超常現象・非合理主義の黄金時代だったのだ。
そういった世界的な超常ブームが開花する時期、その風潮に問題を感じていた良識ある人々もいた。
1970年代初期になると、マーチン・ガードナー(Martin Gardner),ジェイムズ・ランディ(James
Randi),マルセロ・トルッツィ(Marcello Truzzi),レイ・ハイマン(Ray Hyman)といったメンバーが、RSEP(Resources for the
Scientific Evaluation of the Paranormal)という、超常系批判ユニットを結成する。
しかし、この時代、メディアが垂れ流すゴミの量や、それを無批判に信奉する大衆の絶対量から考えると、懐疑派というのは非常に小さい存在であった。
たとえば、1970年代、超常現象批判の最前線は、『Humanist』誌における誌上討論16である。いま、ここを読んでおられるなかで、『Humanist』誌やRSEPというユニットをご存じの人は、いったいどれほどおられよう?知っていたならば、結構ヤル。
ともあれ、この時代、超常現象・超能力・オカルトのブームは右肩あがりであったが、確実に抵抗勢力は形成されていた。とくに、『Humanist』誌を通じて、RSEPとポール・カーツが結びついたことは、その後に重要な意味を持つ。
そういった小勢力の活動が、抵抗勢力として、きちんと確立されるきっかけとなったのは、カーツらによる1975年の「Objections to
Astrology」17である。
これは、いわゆる「占星術は非科学だから信じるな宣言」のことだ。
ノーベル賞受賞者18人を含む、183人の一流科学者が署名しているのだが、はっきりいって、内容もいまいちで、むしろ非難されたりもしている。内容を吟味し、セーガンだけは署名していなかったりすることもあった。
この宣言の目的は、あたりまえといえばあたりまえのように、額面通りには達成されなかったわけだが、疑似科学への抵抗勢力が確立される重要なステップとしての役割を果たした。
宣言の翌年、1976年、ポール・カーツは、RSEPのメンバーや、多くの科学者を誘い、疑似科学批判の抵抗勢力の本拠地「CSICOP」を結成することになる。
この1976年CSICOP(最初はCSICPだった)の設立こそ、科学的懐疑主義の幕開けといってよい。
CSICOPとは、Committee for the Scientific Investigation
of Claims Of the Paranormalの略である。直訳すると「超常的な主張の科学的調査のための会」というところだ。
会長はポール・カーツ(Paul Kurtz)で、副会長はマルセロ・トルッツィ(Marcello
Truzzi)である。
サイコップに名を連ねるメンバーは素晴らしい。有名どころを紹介しよう。
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ジョー・ニッケル(Joe Nickell)
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リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins) |
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レイ・ハイマン(Ray Hyman)
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マレイ・ゲルマン(Murray Gell-Mann) |
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マーチン・ガードナー(Martin Gardner)
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ダグラス・ホフスッター(Douglas Hofstadter) |
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フィリップ・J・クラス(Philip J. Klass)
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アイザック・アシモフ(Isaac Asimov) |
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トマス・ギロビッチ(Thomas Gilovich)
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リチャード・ワイズマン(Richard Wiseman)
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C.E.M.ハンセル(C.E.M.Hansel)
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スーザン・ブラックモア(Susan Blackmore)
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ローレンス・クシュ(Lawrence Kusche)
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ジェームズ・オルコック(James E. Alcock)
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ジェイムズ・ランディ(James Randi)
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ミルボン・クリストファー(Milbourne
Christopher)
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カール・セーガン(Carl Sagan)
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フランシス・クリック(Francis Crick)
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ロバート・ベイカー(Robert A.Baker)
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スティーブン・J・グールド(Stephen J. Gould)
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※ランディはユリ・ゲラーとの訴訟問題で脱退する。
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このような英雄綺羅星の如きメンバーが並ぶ。もちろん他にも有名な科学者や調査者はいる。
いま振り返れば、これだけの陣容を整え、現在も強大なCSICOPは、いかにも最初からうまくいっていたような錯覚をおこしがちである。だが、最初は苦労したのだ。実のところ、1976年から走り出した当初は、失敗も多かったのである。
とくに最初期のミシェル・ゴークランの火星効果論争18などは、当初の懐疑主義の理想を否定するような、無理やりな否定論を強引にすすめたことで、CSICOPが内部分裂してしまう事態に発展している。実際に、複数の離反者が出たのだ。
とくに、副会長でありCSICOPの初代機関誌『The Zetetic』(現『Skeptical
Inquiry』)の編集長でもあった、トルッツィ(私がもっとも尊敬する懐疑論者の一人)が脱退したのは、不幸としかいいようがない。
そう、最初期は、建前とは裏腹に、「非合理勢力を叩き潰すことが正義だ」という姿勢が色濃く、あまりいい印象の活動ではなかった。とくに、ロバート・アントン・ウィルソンの『New
Inquisition』(新異端審問)では、徹底的に批判されてしまった19。
それ以降にも、やりすぎた否定論など、CSICOPの闇というべき事態はある。とくに超心理学批判の歴史は、驚くほど悲惨であった。こういった闇もあるにはあるが、本筋とは関係が薄いので、別の機会に説明しよう。
ともあれ、このような失敗を経験しながらも、CSICOPは、総じて言えば、科学的懐疑主義の確立をはじめ、重要な仕事を果たしてきた。CSICOPは地道に活動を続け、たくさんの超常現象や疑似科学を、実証的に否定する姿勢を徹底した。
ついでにいうと、こういった虚偽を暴く活動を、デバンキング(debunking)という。
懐疑主義の規模は拡大し、1992年には、Skeptic
Societyが、マイケル・シャーマー(Michael Shermer)によって設立される。そのようにして懐疑主義団体の活動は規模
を増していく。
2008年現在では、活動が見えるという条件で絞っても、懐疑主義の団体は世界で30ほど存在する。(ASIOS本城調べ)
本家のCSICOPも、2006年になると、成立から30年を機会に、初期の頃からは想定していない方向や、方法論の発展に伴い、CSI(The
Committee for Skeptical
Inquiry)と改名することになる。これは、懐疑主義が次のステージに移行したことを示す、象徴的な出来事でもあった。
科学的懐疑主義という立場は、こういった活動を意味する言葉、ラベルとして成立したという歴史的な経緯があるのである。
それを踏まえてこそ、前項で紹介した、カーツやシャーマーの説明は、正しく理解することができるであろう。
ところで、科学的懐疑主義と、哲学的懐疑主義のつながりと区別は、どう理解したらよいだろうか。
その関係については、序論で紹介したグールドの言葉
「懐疑主義には、古代ギリシアの哲学から、カール・セーガン最後の著作にいたるまで、由緒正しい伝統がある」
にあるように、伝統には沿うという点がある。
哲学的懐疑主義は、古代から近代まで、必ずしも単一の哲学を意味してきたわけではないのだが、それでも総じていえば、懐疑主義とは、絶対的な真理や基本原理の発見を主張する独断主義(Dogmatism)に対して、その普遍性や客観性を吟味し、最終的には反対するような哲学として、荒っぽくまとめることはできる。
この意味でいえば、しばしば頑迷な疑似科学者やスピリチュアル系の信奉者は、驚くほど独断論であり、真理を主張するので、その主張を吟味し、批判的に論じる立場は、懐疑主義の伝統に沿うものなのである。
つまり古代ギリシアからカール・セーガンまで、由緒ただしい伝統でもあるのだ。
ただし「魔法はけっして存在しない」とか「科学には絶対の真理がある」というドクマで、異常現象を頭から否定するような態度にも、同じように接するストイックな姿勢がなければ似非懐疑主義である。
仮に自分と同じ結論であろうとも、その過程は批判されるからである。
また、哲学的懐疑主義が提供する認識論は、科学を通じて、科学的懐疑主義にも前提として含まれているというのは先に述べたとおりである。
さて、もしかしたら、哲学的懐疑主義と科学的懐疑主義という区分がおおざっぱだと思う人がいるかもしれない。
たしかにその通りだ。だが、そもそも、哲学的懐疑主義と科学的懐疑主義の区別を意識して論じる状況は、本稿のような解説のほかは、哲学の授業など、限られた状況であ
ろう。
本職の哲学者であり、哲学的懐疑論者を自任しているThe
Skeptic's Dictionaryのロバート・キャロル(Robert
Carroll)20は、この区別について次のように述べている。
「Q.哲学者たちは、一般的懐疑主義と哲学的懐疑主義のあいだに明確な線引きをしたがるものです。前者は特定の事実に関する主張だし、後者は真実と知識が存在するかどうかという可能性の問題にほかならないからです。
あなたがここで扱っているのは、後者ではなく前者のようです。これについて3つばかり質問があります。
(i)まずはじめに、懐疑主義に関するこうした定義が有効だということに賛同しますか?
A.キャロル:一般的懐疑主義と哲学的懐疑主義の間の線引きは、哲学的懐疑主義について文章を書いたり教育をおこなったりする場合には、必要だと思います。
ピュロン主義であれアカデメイア派であれ、懐疑論者とは教条主義を掘り崩すものであって、その目的には絶対的真実なるものが存在し得るという主張を否定するものです。読み手や学生は、このことを知っておくべきだからです。」The
Skeptic's Dictionary 「Interview with Dr Julian Baggini of Philosophers'
Web Magazine」 (September 1997)
また、キャロルは、別のインタビューで、もっとも有名な懐疑論者として、次の面子を挙げている。
故人ではカール・セーガン(Carl Sagan)とデイヴィッド・ヒューム(David Hume)。
存命中の人物ではガードナー(Martin Gardner),ランディ(James
Randi),シャーマー(Michael Shermer)である。
Interview
with Bob Carrol, Founder of Skepdic.com - 21st April 2003
このように、ヒュームなどは両者の懐疑主義を象徴しうる存在である。
要するに、身も蓋もないが、哲学的懐疑主義という区分は、文脈でわかればよい程度で、あまり重視する必要はない、という考えが妥当なところだろう。
その関係性は、あるといえばあるし、ないといえばない程度の距離なのである。
さて、最後に、科学的懐疑主義の認識論や可謬主義的態度について、こういった表現も可能である。
科学的懐疑主義の立場では、「電気をつけたら、自称霊媒師がトランペットを吊るした竹ざおを握り締め、素っ裸でシーツをかぶろうとしている瞬間だった」という状況に出くわしたとき、それはインチキの決定的証拠だという結論を採用するにやぶさかではなく、悪魔が幻覚を見せている可能性はないか?とか、あれは確かにシーツのようだが、実はエクトプラズムが実体化したのではないか?とか、自分は水槽に隔離された脳なのではないか?など、そういう「なんでもあり」な可能性までは注意を払わないということである。
ともあれ、哲学的懐疑主義と科学的懐疑主義の距離と関係は、このような感覚で理解しておけば間違いない。
脚注
10. 自然主義(naturalism)
自然主義(naturalism)とは、文学のそれではなく、哲学の自然主義である。これはキリスト教圏だからこそ、より明確にする必要のあった哲学的世界観でもあり、日本人の多くは、普通の立場に感じるかもしれない。
自然主義が意味する「自然」とは、超自然的存在者(ぶっちゃけ神など)の介入など考えず、ただある宇宙全体を意味している。
自然主義は、自然には目的などなく、人間の欲求や願望とは無関係な存在だという仮定を採用した世界観であり、現在の自然科学が暗黙裡に採用している世界観は、基本的に自然主義である。
つまりは、超常現象とされる主張(その多くは明らかに物理現象のように思える)が事実ならば、現在の科学を拡張される可能性も含め、自然科学になりうるはずだという信念は、自然主義的なのである。
自然主義は、しばしば無神論や科学主義とも同一視されるが、神即自然というスピノザの神など、理神論(deism)とは両立するため、必ずしも同一ではない。科学主義は、その言葉を科学の実績と権威に適度な信頼を持つ世界観を採用する立場として理解する限り、必然的に自然主義的な世界観をもつことになるが、通常は、科学万能主義(非科学的な立場である)や傲慢というニュアンスを含んだ、ネガティブな意味で用いられているため、同一視するのは適切ではない。
他、The Skeptic's Dictionary>自然主義
naturalism
なども参照されたい。
理神論(deism)
理神論とは、宇宙開闢の創造者など、現世に無関心な神は認めるが、人格神はもとより、啓示や奇跡など、自然への干渉の存在は否定するといった、哲学あるいは神学の立場。18世紀イギリスで始まり、フランスやドイツの啓蒙思想に継承されていく。カール・セーガンが尊敬しているアメリカの建国の父たちは、理神論者であった。
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11. ハリー・フーディーニ(Harry
Houdini)
アメリカでもっとも有名なマジシャンであり、伝説的な脱出王である。マジシャンではアメリカ史上初の切手にもなった好漢。
生涯をかけて職業霊媒の詐術を暴き続けたことでも有名で、いまをもって多くの懐疑論者やデバンカーから尊敬されている。
心霊主義時代のジェイムズ・ランデイ(あるいはランディが現代のフーディーニ)といえば、どの程度かわかるだろう。ちなみに、ジョー・ニッケルはフーディーニに憧れているそうだ。
デバンカー(Debunker)も参照されたい。
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12. ウィリアム・マリオット(William
marriott)
フーディーニと同時代に、イギリスで活動した霊媒術のスーパーデバンカー。
日本語情報・英語情報ともに極端に少ないため、あまり有名ではない(?)が、少なくとも心霊主義の全盛時、その批判者としてはかなりのビッグネームだったらしい。
とくに、悪名高い「インチキ霊媒グッズ」のカタログを入手し、それを使って実演したこともあれば、美女っ子霊媒フローレンス・クックの演目「K・T・キング」の実体化なども、どのトリックを使ったのかまで特定している。
ほか、心霊主義のしょうもないビリーバーであるコナン・ドイルに実力を認めさせたり、ハリー・プライス(有名な肯定的研究者)に協力するなど、20世紀前半の心霊主義シーンに深く絡んでいる。
デバンカー(Debunker)も参照されたい。
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13. 現代的な懐疑主義の活動(The
modern skeptical movement)という意味では、1952年のマーチン・ガードナー(Martin
Gardner)を起源とする方が、より適切に思われる
起源がマーチン・ガードナーであるとする解釈は、特に私個人だけの見解ではない。同じ所見を述べているのでマイクル・シャーマーを引用する。
「The modern skeptical
movement is a fairly recent phenomenon dating back to Martin
Gardner’s 1952 classic, Fads and Fallacies In the Name of Science.
Gardner’s copious essays and books over the past four decades debunking
all manner of bizarre claims, coupled to James “the Amazing” Randi’s
countless psychic challenges and media appearances throughout the 1970s
and 1980s (including 36 appearances on The Tonight Show), pushed
the skeptical movement to the forefront of public consciousness.
」
The Skeptics Society A
SKEPTICAL MANIFESTO The History, Meaning & Limits of Skepticism
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14. H.L.メンケン(H.L.Mencken) Henry Louis "H. L." Mencken (1880 – 1956)
アメリカのジャーナリスト
モーニング・ヘラルド゙紙のリポーターであり、ジャーナリストとして活動。
伝説的な皮肉屋で、「抱腹絶倒一回は三段論法千回に勝る」という指針を残す。
それは、ガードナーによって見事に継承されることになる。 戻る
15.本格的に事態が進行するのは、1970年
ただし、それまでも、超心理学がもてはやされ、保守的な陣営が弱かった時期さえあった。さらには、ヴェリコフスキー事件なども起きており、非合理的な与太の歴史が、途絶えていたという意味ではない。
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16.1970年代、超常現象批判の最前線は、『Humanist』誌における誌上討論であった
この時代の懐疑論者側の主要な批判論文は、世界的にも貴重な内容の日本語本である『サイの戦場―超心理学論争全史』に収録されている。
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17.カーツらによる1975年の「Objections to
Astrology」
『The Humanist』 1975,9+10月号
Objections to Astrology
Scientists in a variety of fields have become
concerned about the increased acceptance of astrology in many parts of the
world. We, the undersigned—astronomers, astrophysicists, and scientists in
other fields—wish to caution the public against the unquestioning
acceptance of the predictions and advice given privately and publicly by
astrologers. Those who wish to believe in astrology should realize that
there is no scientific foundation for its tenets.
という書き出しから始まる声明である。内容は、占星術にはなにも科学的な根拠がなく、こんなのを受け入れる傾向には警告したい。我々科学者は、そんなものはまったく信用していない。
というものである。特徴的なことは、ノーベル賞受賞者18名を含む、科学者183人による署名つきということであった。
しかし、この宣言は「占星術はないのだ」という、権威主義的で、原理的な否定を含む文言を理由に、カール・セーガンだけは署名しなかったという事態もあった。
さらに、占星術をこれっぱかしも信じていないであろう、相対主義的な哲学者ポール・ファイヤーベントが、いつものように科学者をおちょくる格好の素材として、噛みつくことになった。
たしかに、こんな宣言がオカルトのまん延に、何か効果を持つと期待するのは難しい。ともあれ、疑似科学批判の黎明期を象徴する事件でもあった。 戻る
18.ミシェル・ゴークランの火星効果論争
次のような内容である。
「 フランスの統計学者ミシェル・ゴークランが出生時の惑星の位置が本人に与える影響の一つとして主張したもので、一流のスポーツ選手には火星が天球上の特定の位置にある者が統計上有意な確度で多いというもの。
同様の現象は木星についても主張され、木星効果と呼ばれる。CSICOPの統計学者アービン・ゼレンはポール・カーツやジョージ・アベルとともに1976年から1980年にかけて火星効果を反証しようと試みたが、レイ・ハイマンやエリザベス・スコット、ローリンズらはその手法に問題があることを指摘、ディングウォールやドルッチら多くの会員が脱会する結果となった。
いわゆる超常現象に属する事例のなかで未だ反証されていないものの一つである。一部の西洋占星術師たちは火星効果について、西洋占星術が正しいという証明であるような言い方をしているが、ゴークランは同時に他の占星術上の理論をも検証し、それらは統計上まったく意味がないことも証明している。またゴークランが指摘した火星の位置は、伝統的な西洋占星術では軽視されてきたケーデントの位置にある。」『超常現象大事典―永久保存版』羽仁礼著
他、詳しい情報は『New
Inquisition』にも出ている。 戻る
19.とくに、ロバート・アントン・ウィルソンの『New
Inquisition』(新異端審問)では、徹底的に批判されてしまった。
やや誇張されたきらいはあるが、たしかに不毛なことであった。これはCSICOP史に残る闇といってもよい。
この『新異端審問』は、科学朝日の『オカルト徹底批判』に対して出版された、別冊歴史読本特別増刊『オカルトがなぜ悪い!?』にも収録されている。
余談になるが、CSICOPは現代の異端審問だ!という避難に対しては、カール・セーガンが答えている。
「信仰を強要する懐疑論者はいない…ニューエイジ信奉者は…犯罪法定に引き出されるわけでも、幻視を見たからといって鞭打たれるわけでもないし、ましてや火あぶりの刑に処されるわけでもない」
(『人はなぜエセ科学に騙されるのか』セーガン)
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20.哲学的懐疑論者を自任しているThe
Skeptic's Dictionaryのロバート・キャロル(Robert
Carroll)
『Philosophers' Web Magazine』(1997年9月)インタビューで次のように回答している。
「もし哲学的懐疑論に線引きをするとしたら、あなたはどちらに入りますか?
→私は自分自身では哲学的懐疑論者だと思っています。私は経験論的事象においても形而上学的事象においても、絶対的真実とか絶対的確かさとかいったものを信じたりはしませんし。私は、アプリオリな真実は発見によって生じた真実ではなく、定義と同意によって生まれた真実にほかならないと信じています。私は、教条的哲学の土台はすべて懐疑論的議論によって突き崩すことができると信じています。
」
大前生田訳版Philosophers'
Web Magazineのジュリアン・バギーニ博士とのインタビュー
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