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認識的相対主義
cognitive relativism
 


   
…西欧の大学で、特に文学部と人類学部で、客観的な実在についてのすべての「事実」は単に知的構築物にすぎないとする「ポストモダン的な」知的潮流が広まった。簡単にいえば、事実と作り話には明確な区別はないというのだ。しかし、違いはある。そして、歴史家にとっては、たとえもっとも過激な反実証主義者にとっても、両者を区別する能力こそ根本的に重要なのである。 (Hobsbawm 1993, p.63)
 
   

相対主義批判の前に

 哲学的懐疑主義は「絶対真などありえない」といった主張を含むとされるため、しばしば懐疑主義は相対主義にいたるとされている。しかし、先にお断りしておくが、我々の懐疑主義は、哲学ではなく、立場の総称として成立し、浸透していったものであるから、そういった議論とは無関係であるということを強調しておく。
 とはいえ哲学的に補足することは可能で、古代からの懐疑主義哲学が「絶対真などありえない」に続く言葉として「だから全て判断を保留すべきだ」という判断と行動の停止に至るラディカルな立場であるとすれば、我々の懐疑主義は、「だから知識は蓋然性によって評価すべき」であり、そして、蓋然性の判断である以上、知識は常に誤りの可能性を含むため、疑わしき知識は懐疑し、誤りがあれば修正すればよい、という立場を採用している。そして科学的方法と、科学の知識体系に、適度な信頼をおいている。

相対主義の種類

 本稿で解説するのは、相対主義のなかでも認識的相対主義という立場である。まず、相対主義には、おおまかに認識的相対主義 (真偽について)、道徳的相対主義 (善悪について)、審美的相対主義 (美醜について)といった3種類の相対主義が存在する。

 そのうち、善悪が相対的であるということに異論がある者は滅多におるまい。少なくとも、宇宙は善悪を定めていないという意味では。また、美醜が相対的であるということも、異性の好みが千差万別であるという現実からも納得できるだろう。(個人的には、人間が社会生活をおくる場合に、文化や時代が違えど、準普遍的道徳が存在するのは認めるし、美醜についても準普遍的な要素があると考えている。たとえばe^iπ=-1 に美を感じるのは、本質的な何かがあるからだと思う。ただし、ここではそういう微妙な議論を要する部分は飛ばし、絶対的なものではないという意味で善悪・美醜が相対的であるということに異論はないとする。)

 したがって、善悪美醜の2種類の相対主義は、別にどうでもよい。しかし、もう一つの相対主義、つまり「真偽」についての相対主義だけはいろいろと問題がある。

 まず、真偽が相対的であるという認識的相対主義は、どういう立場だろうか?はっきりいえば、真実は人それぞれであり、相対的であるという考えを無制限に採用する立場といえるだろう

 少し考えると気がつくと思うが、この立場は、認識的相対主義が絶対的で特権階級にあるとする理由がない限り、自己論駁的な主張であり、本気の認識的相対主義は、よほど奇妙な認識論を採用しない限り、根本的に成立しないように思われる

認識的相対主義と反科学の困った癒着

 実は、相対主義がかかえる問題は、純粋な哲学の問題ではない。

 認識的相対主義は、反科学的な気分によって支配されている傾向があり、しばしば「いかなる意味でも科学的な事実が、他の競合する主張より、真実性において優れていることはない」といった主張を展開したがる。
 この部分については、黒木玄のウェブサイト にある「相対主義」が嫌われる理由にうまくまとまっているので引用したい。

 

「相対主義」が嫌われる理由

 質問: 「相対主義」が嫌われているのはどうしてですか?

 回答: 嫌う理由は人によって様々だと思います。ここでは筆者が「相対主義」を標傍する人たちにありがちだと感じている悪しき振舞いを箇条書きしておきます:

  1. 科学理論の内容に深く触れることをせず (理解してないからできない)、相対主義的な半可通の哲学を持ち出すことによって、その科学理論は絶対ではないという陳腐な意見を述べ続ける人。そのような人は、ある種の科学論の本によく見られるような、一見過激に見えるが、実は常識的でつまらないことしか言ってない。
     
  2. 相対主義を強く標傍しておきながら、自分自身がよって立つ基盤については全く無批判な人。相対主義を強く標傍する人は、他人から見ると、あらゆる物事を一望のもとに見渡した上で、あらゆる考え方は相対的である、と言っているように見える場合が多いものです。表面的には相対主義の平等主義者のように振舞いながら、裏では自分だけが特権的な立場に立っているとみなしているような奴は、嫌われても仕方ありません。
     
  3. あらゆる主張を正当化するためのレトリックとして、“相対主義” (?) を用いる輩。これは最も悪質。「あなたの批判は絶対的に正しいわけではないのだから、私の意見は正しいのだ」という型の議論をする馬鹿を見たことはありませんか? 「あなたの主張は誤りである」と批判されたときに、「私が誤っているということをあなたは絶対的に証明することはできない」という当然の認識論的な結論を持ち出して、あたかも自分の主張に意味があるかのように見せかけるというのは典型的です。
 
   

 なお、認識的相対主義と呼ばれていることを知らず、自覚なしに世界観として採用する者もいる。

 その一番手は、精神世界系の信奉者。彼らの主張は、「真実は人それぞれ」「あなたにとっての真実、私にとっての真実」「あなたの心が正しいと感じたものが真実です」といった具合である。

 私は、そういう手合いにはいつも

 「私は貴方の相対主義的な世界観が、貴方にとっても完璧に間違えていると強く確信しているし、貴方もそれを認めることが正しいと思うのですが、それも真実ですか?」

 という質問をするのだが、明快なお返事をいただけないし、逆切れされるか、無視されることばかりである。なんとも悲しい。
 考えないことに価値を見出す精神的な怠惰さは、まさに懐疑主義の反対であり、クリティカルシンキング(Critical thinking)の対極に近い。

 また、物理学と神秘主義を等しく真実であるとするわりに、現実社会において、己を騙すことができる精神的に病んだ犯罪者と被害者の相反する「真実」についての議論はたがらない。思うに、内心では自分が相対主義を信じていないことに、薄々気がついているのだ。
 おそらく自分がひったくりにあい、犯人が目の前に連行されたとき、認識的相対主義者の本気度が判明するのだろう―お、、お、、おれはそんなことしてないヨ! どうするんだろう。

『「知」の欺瞞』の相対主義批判

 こちらは、『知の欺瞞』が批判している、よりアカデミックな現場で活躍していた相対主義についての解説で、似非科学哲学による疑似科学批判批判や疑似科学弁護論に対抗するためには、基礎教養といってよい話である。

 『知の欺瞞』における相対主義批判のキモは、相対主義色の強い科学論が、「穏健な」読み方をすると、議論に値するまともな主張か、真実であるが自明な主張が読みとれ、「過激な」読み方をすると、人を驚かすが誤った主張が読みとれるという構造と、通常は「過激な」読み方で論じているはずにもかかわらず(そうでないとわざわざ主張する意味がない)、批判に対しては、「穏健な」読み方が批判されているかのように応じるという欺瞞性の追求である。


 『知の欺瞞』の相対主義批判を補足しつつ引用してくれている 黒木玄のウェブサイトから、具体的な議論を引用する。
 
  「 曖昧なテクストの例として、ブルーノ・ラトゥールの方法の規則の三つ目を挙げておきましょう:

論争の決着は、自然の表象の原因であり、その結果ではないのだから、この自然という結果を、なぜどのようにして論争が決着したのかを説明するために用いることは決してできない。
(『科学が作られているとき』 177、435頁より)

Since the settlement of a controversy is the cause of Nature's representation, not the consequence, we can never use the outcome -- Nature -- to explain how and why a controversy has been settled.
(Science in Action, pp. 99, 258)

 念のために、英語の原文も引用しておきました。強調は原文の通りです。以下を読む前にこれをどのように解釈するかをじっくり考えてみて下さい。「自然の表象」は大体において「科学の理論」を意味しています。

 『「知」の欺瞞』はこのラトゥールの第三の規則の曖昧さを以下のように指摘しています。まず、

ラトゥールは何の断りもなく、前半の「自然の表象」を後半では単なる「自然」にすり替えていることに注意したい。
(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 125頁より)

1. 後半の「自然」も「自然の表象」に置き換え、「論争の決着は、自然の表象の原因であり、その結果ではないのだから、この自然の表象という結果を、なぜどのようにして論争が決着したのかを説明するために用いることは決してできない」と読み直して解釈:

かりに後半の「自然」も「自然の表象」に置き換えてこの文章を読み直せば、科学者による自然の表象 (つまり科学の理論) は社会的なプロセスによって到達させるものであり、単にその結果を使って、そのプロセスがどう進行しどういう結果にいたったかを説明することはできないという自明な話になってしまう。
(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 125-126頁より)

2. 全てを文字どおり受け取って解釈:

他方、後半での「自然」を文字どおりに受け取り、そこにあるとおりに「結果」という言葉と結びつけるとすると、外的な世界は科学者の談合によって創られるという主張になる。これは、どう大目に見ても、かなり奇っ怪な型の過激観念論である。
(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 126頁より)

3. 後半の「自然」を文字どおりに受け取り、そのすぐ後の「結果」という言葉の存在を忘れ、「論争の決着は、自然の表象の原因であり、その結果ではないのだから、自然を、なぜどのようにして論争が決着したのかを説明するために用いることは決してできない」と読み直して解釈:

最後に、後半の「自然」を文字どおりに取り、かつそのすぐ後ろにある「結果」をきれいに忘れると、

(a) 科学的な論争の推移や結果は外の世界の性質だけでは説明しきれない (ほかのより微妙な社会的な影響に触れないにしろ、少なくともその時点でどのような実験が技術的に可能か決めるというだけでも、何らかの社会的要因が介入するのは当然である) という弱い、そして当たり前の主張か、

(b) 外的な世界の性質は、科学的な論争の推移や結果を左右するような役割を果たさないという強いが明らかに誤った主張が読みとれる(120)

(120) (b) についてはグロスとレヴィット (Gross and Levitt 1994, pp. 57-58) が、窓のない建物の中で働いている人たちが「外では雨が降っているだろうか?」という論争をいかにして決着させるかという身近な例で的確に批判している。

(『「知」の欺瞞』「第一の間奏」 126頁より、引用するとき改行位置を変えた)

相対主義色の強いテクストのスタイルに染まっている人たちは、曖昧な言い方で 3 (b) に限りなく近いことを言っているように聞こえるような発言をすることが多いのです。その上、そのような発言は科学論者たちや科学論ユーザーたちの間でなぜか人気を得ている。

そして、別の場所で、極端なことを言っているのではないかと非難された場合には、 3 (a) に近い穏健だが当たり前の主張を述べて批判をかわします。このようなやり方は、科学者相手の論争では特に有効です。なぜなら、周囲の人たちに「科学者は科学の論争への社会的な影響に全く気付いてないから (もしくはそれを完全に無視したいから)、このような当たり前の主張にも反対するのだ」というような印象を与えることができるからです。」

 
   

 以上、ぬるい安直なものから、一見すると学術的に意味がありそうな相対主義の反科学論まで、認識的相対主義についての説明である。

 懐疑論者が「相対主義」というときは、ことわりがない場合は、これらの認識的相対主義を指すので覚えておいて欲しい。


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