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論点先取
begging the question

 
 論点先取とは虚偽の論法の一つであり、結論が前提に含まれているため、論証のようでいて論証になっていない議論を指す。

一般に、前提の妥当性を別の議論によって示す必要があるにも関わらず、気付きにくいタイプの循環論法によって、論点を真実とみなしているような議論に散見される。また、複雑な論証のようでいて、議論を圧縮すると論点先取の虚偽に帰着していたという場合も、そう珍しいことではない。

なお、前提とする仮定の妥当性を、別の議論によって示すことが出来る(あるいは常識的に予想できる)場合は、基本的に論点先取の虚偽という批判は当たらない。

ここでいくつかの具体例を検討しよう。

まず次の議論は、単純な循環論法による論点先取の形式で、実際、ここまで酷い主張を展開するケースは多くないだろう。

「 聖書は神の導きによって、その御言葉を書き写した記録である。
  神は、完全なる真理、客観的な真実を語りたもうた。
  なればこそ聖書の記述は完全なる真理と客観的な真実の記録である。」

この議論の結論は「聖書の記述は完全に真である」ということである。ところが、この論者は「聖書は真理を語る神の御言葉である」と仮定しており、つまり「聖書の記述は完全に真である」と仮定している。しかし、それは結論であって前提にはできない。

この議論を妥当なものにするためには、聖書が真理を語る神の御言葉であるという仮定について、それが採用するに足る蓋然性(確からしさ)を持つことを、別の議論によって示さなくてはならない。それが出来ない場合、この議論は前提とする仮定に結論が含まれているため、論点先取をやらかしている。

もう一例、論点を真実と見なして議論を先に進めようとしている単純な例を紹介する。

「 幽霊は実在する。なぜなら、私は幽霊としか説明のしようがない異様な存在を確かに目撃したからだ。」

※以下の説明は「論点先取」の説明であり、現実としてはもっと詳しく話を聞かないと何も始まらない。何か評価ないし結論をする必要がある場合も然り。

この議論の結論は「幽霊(あるいは、幽霊と表現できそうな異様な存在)は実在する」ということである。この場合、前提のなかで「何かを目撃した」という主観的な体験の真実性を疑う積極的な理由がない場合、そうした目撃体験があったということは事実として扱うことができる。

しかしながら、この議論の論点は「何を目撃したか」の「何を」にある。ところが、この論者は「実在する幽霊を目撃した」ということを実質的に仮定しており、「実在する幽霊を目撃したのだから幽霊は実在する」と結論しているに等しい。この議論は前提とする仮定に結論が含まれているため、論点先取の虚偽をやらかしている。

また、このような主張を受けて始まる現実の議論を想定すると、上記解説が直接適用されるほど単純ではない。当然だが「誤った消去法」や「立証責任の転嫁」や「無知に訴える議論」や「認識的相対主義」が話題になるなど、紆余曲折を経ることも多いのだが、めぐりめぐって、上記解説のような論点先取の虚偽が、最終的な収束地点になっていたという事例は多い。(数千文字の議論を経た結果として、相手の主張が「実在する幽霊を目撃したので幽霊は実在する」という話でしかないことが明瞭になった、という経験は珍しくない)

この議論を妥当なものにするためには、自分の目撃体験が異常な何かを目撃したと評価できるだけの根拠を別の議論で示す必要がある。

上記例も現実に則しているが、次に、さらに現実的な例も検討しよう。

これは経験則になるが、論点先取の虚偽に該当する議論は、霊魂仮説、死後生存論争、社会問題など、現実に論争が生じている話題に、単純なロジックで結論を出すような主張に見出し易い。もちろん、そればかりではなく、賢明な人々ですら意図せずしてやらかしてしまう場合もあり、自他共に注意する必要があるのだが。

次の議論は論点を真実と見なして議論を進める実例である。これは単純な循環論法よりも一般的で、現実の社会でも散見される論点先取の典型である。

「 中絶は殺人である。殺人は、社会が絶対に容認してはならない種類の犯罪である。つまり、中絶という行為もまた本質的に犯罪なのである。もちろん中絶に関する法の運用には議論の余地があるかもしれない。ただし、中絶が殺人という犯罪であることだけは単純明快な真実である。」
 
この議論の結論は「中絶は犯罪だ」ということである。ところが、この論者は「中絶は殺人である」と仮定しており、つまり「中絶は犯罪である」と仮定している。しかし、それは結論であって前提にはできない。

この議論を妥当なものにするためには、中絶が社会一般での殺人と同等の犯罪性があるということを、別の議論によって示さなくてはならない。ということは、そもそも何も論証しておらず、論証のようでいて論証になっていないのである。この議論は前提とする仮定に結論が含まれているため、論点先取の虚偽をやらかしている。

もう一例、論点先取の例を紹介しよう。次の議論も結論が前提に含まれている。

「 臨死体験が死後生の傍証だとする仮説は誤っている。なぜなら、死後のことは死ぬことでしか知り得ないからだ。そして、臨死体験は死ではないのだから死後生とは根本的に関係のない現象である。」

この議論の結論は「臨死体験の特殊性が死後生存を示唆しているとする仮説は完全に誤っている」ということである。ところが、この議論は「死後のことは死ななくては知り得ない」と仮定しており、つまり「臨死体験(実際は「死」を除く全ての体験)は、死後生の傍証ではありえないから誤りだ」と仮定している。しかし、それは結論であって前提にはできない。

この議論を妥当なものにするためには、「生物学的な死に近い状態からの生還」によって得られる特殊性のある情報と「本当に死ぬ体験」から得られる(かもしれない)情報が、完全に隔絶していることを示さなくてはならない。この議論は前提とする仮定に結論が含まれているため、論点先取をやらかしている。

もっとも「臨死体験が死後生の傍証にはなりそうもない」という結論は、個人的には支持するものである。しかしながら、その理由は「臨死体験が死そのものではないから関係ない」という不可知論からではなく、臨死体験をめぐる学問上の死後生論争を総合的に評価した結果から、死後生存仮説は現在のところ棄却しているという意味に過ぎない。

また、このことから判るように、論点先取があったとしても、議論の結論そのものが誤りであるとは限らないのだが、おかしな議論にならないためにも注意しておくべき問題である。

 

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