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 懐疑論者FAQ

Q. あんた、いったい何様のつもりだ!
  Q. 懐疑論者(skeptics)って、いわゆる否定派(denier)でしょう?
  Q. 懐疑論者には夢がない、ロマンがない。貴方にはロマンが判らないだけではないか?
  Q. パスツールやウェゲナーも笑われた。懐疑論者は同じ過ちを繰り返している
  Q. もし懐疑論者が否定していた主張が、後に真実だと判明した場合、あなたはいったいどうする気だ?
  Q. 存在しないことの証明は不可能です。なのに懐疑論者はどうして否定的な結論を出せるのですか?
  Q. 懐疑論者は全てを疑うのですから、懐疑主義にも懐疑的ですよね

Q.あんた、いったい何様のつもりだ?

A.この質問はつまり、私のような無学で研究者でもなければ、特別なところもない三十男に、いったいどんな権利があって、無数の人々が長らく信じてきた知識や大学教授の仕事に、異論を述べたり批判したりできるのか、ということだと思います。

とくに、私なんかよりずっと賢くて知的な人々が、死後生存や超能力の実在を確信してきたこともあるでしょうから、あなたからすれば、懐疑論者という人種は、ひどく思い上がった自惚れ屋であるか、偏狭で傲慢な人物のように思えるのかもしれません。

しかしながら、超常現象や心霊現象をはじめ疑似科学とされる主張や陰謀論に都市伝説まで、懐疑論者が真相に興味を持って調査するような主張というのは、きちんと真相に到達できた場合は、ほとんど全て、否定的に決着してきたという歴史があります。

要するに、このカテゴリは、どういうわけか、真偽の度合いを客観的に評価することが可能な、新しい知識の候補とすべき主張でありながら、誤って真実だとされがちな特徴があるのです。

たしかに「水が人語を解す」とか「巨石文明はエイリアンの入れ知恵のおかげ」といったヨタ話を真に受けていても、日常生活には支障がないのでしょうし、血液型と性格の相関などは、疑念を表明すると、円滑な人間関係に緊張状態を生じさせる場合さえあるのも事実です。

そして、そのような状況は、科学的、経験的証拠からは支持することができないような主張について、その異常性に見合うことなく軽信しても良いという空気を醸成してきました。

しかしながら、それは、現実の世界に対する知識として採用するにあたり、知識として受け入れる基準を、勝手に下げていることに他ならず、そうして良いとする肯定的な理由はありません。

確実なことは、現実問題として、これらの領域にある主張は、主張者や信奉者の個人的資質や実績や誠実さ、良識あるたくさんの支持者の存在など、ラーメン屋を評価する場合などに、ある程度は有用となる判断の指針が、驚くほどあてにならないという状況をもたらしていることです。

実際に、尊敬に足る業績を持った大企業の重役が「100匹目のサル現象」を信じていたり、数学史に名を残す大天才が「シェイクスピアの正体はベーコンである」とか、文化人や識者とされるはずの人々が「ゲーム脳」を本気で信じていることなど、さほど珍しいことではありません。

だからこそ、私のような凡人でも、知的好奇心を動機とし、科学的懐疑の精神を意識するように努め、疑わしきは調査すべしという、労を厭わない覚悟を持って接していれば、私なんかよりずっと賢くて知的な人たちが信じてきた知識や信念のなかに、誤りを発見したり、異論を述べたり、批判したりすることさえできてしまうのです。

たしかに、私には、批判と非難の区別がつかない人々に迎合する寛容さはありませんし、ややもすると傲慢に見えるのかもしれませんが、本質的な意味で、事実に対しては傲慢であったり、身の程知らずな自惚れ屋であったりするわけではありません。

むしろ事実に対する謙虚さと誠実さという意味では、それらの主張を無批判に軽信している人々よりも、遥かに真摯な態度で接しているという自負があります。

ですから、私は、誤り易き人類の末席にあって、真実に対してこそ誠実でありたいと努める、知的好奇心の旺盛な一人の懐疑論者に過ぎません。

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Q.懐疑論者(skeptics)って、いわゆる否定派(denier)でしょう?

A.否定派という人々をどのように解釈するかによりますが、おそらく、否定派とされる人々も、懐疑論者も、超常現象や心霊現象、超能力、迷信、オカルト、陰謀論、疑似科学など、非合理とされるカテゴリの主張に対して、しばしば、否定的な結論や懐疑的な見解を提示します。

逆に、それらの主張を支持することは、まずありませんし、蓋然性が低いと思う異常な主張に接した場合も、軽信することはしません。したがって、そういった側面だけに注目すれば、恐らくあなたが「否定派」と呼ぶ人々と懐疑論者は区別が難しいのかもしれません。

しかしながら、それは皮相的な見方に過ぎません。懐疑論者と否定派は似て非なるものです。

そして、似て非なるものは似ているけれど非なるものです。

これは、あくまで経験則に基づくものですが、否定派という場合、一連の非合理とされるカテゴリの主張に対して、システマティックに貼りつけた「非合理」のレッテルを過信し、不用意な否定論を振りかざしがちな態度の人々を指すべきだと考えます。

また、否定派とすべき人々は、怪しい否定論を批判的に扱わない傾向がありますが、懐疑論者は、ある話題について同じ結論を支持している場合でも、怪しい否定論が展開されているならば、それを批判的に吟味し、却下しうるという違いもあるでしょう。

さらに、事実と異なる対象を否定する誤謬―つまり藁人形に対する議論―は、基本的に、批判対象に対する無知によって生じますが、これをやらかのは、ビリーバーによる現代科学批判が圧倒的に多いのですが、その次に、否定派による非合理批判に多いという経験則もあります。

たとえば、否定派の論客として知られる物理学者がやってしまった、もっとも凄絶なケースでは、「人間の体を構成する原子が、自然に集まって別の人間の身体を再構成することは、熱力学の第二法則からいってありえない、だから生まれ変わりはありえない」というものがありました。

さすがに、ここまで酷い例は稀有ですが、もう少しまともであっても、不当に一般化した否定論を強弁する限り、ごく希に確認されるブライディ・マーフィ事例のような、真に興味深い「グレーかもしれない」事例が出てきたときに、公平な評価をすることができなくなってしまうでしょう。

この事例は、報告初期から今日まで、前世や生まれ変わりという、異常性が極端に高い現象の実在性を示す証拠として扱われるべき瞬間があったとは思いませんが、同時に、さらなる調査と検証に値する事例だったということは、当然とするだけの中身がありました。

結論として「ブライディ・マーフィ事例」が前世の実在性を支持する証拠だという主張は棄却すべきで、否定的に決着したと判断できますが、それは結果に過ぎません。

他にも「オンム・セティ」のように、結論としてどう判断するにせよ、異常性が極端に高い未解明な事例が存在することを知れば、前世という典型的なヨタ話の問題についてすら、安易な否定論が通用しないという現実に直面するでしょう。

そうした経験の積み重ねは、非合理批判という文脈にあって、私たちを賢くし、謙虚さを学ばせてくれます。そして、上述のような事例を吟味した上でも、懐疑論者は、前世回帰に一定の信頼性があるとすら主張しませんし、かなり否定的です。

さて、こうした結論だけを比較した場合、ある意味、前世の実在性に関する評価や結論というのは、懐疑論者も否定派も、ほぼ同じようなものです。

しかしながら「グレーかもしれない」事例を充分に知り、その上でも、なぜ前世の実在性が棄却されるのかを熟慮してきた懐疑論者と、観念論による一般化によって、否定的見解を抱いているだけの否定派は、結論こそ同じであっても、そこに至る中身の精度や妥当性に、途方もない差があるというのは明白です。さらに、このような差異は、珍しいことではありません。

こういった違いは、懐疑論者と否定派の本質的な違いから生じているのでしょう。

なにしろ、懐疑論者であるということは、自分が誤り易い人間であることを自覚した謙虚さを持つことでもあり、既存の知識に挑戦する新しい主張を、直感的な判断以上に妥当な知識にするために努力することでもあるのです。

懐疑論者も否定派も、異常性の高い情報は軽信せず、安易な結論に飛びつかない、確立された知識に対する保守性の原則を実践しています。

しかしながら、懐疑論者は、保守性の原則だけではなく、同時に、自身の知識にある誤りを検出し、自己修正することで、知識の精度を高めていく知識の淘汰を、バランスよく維持するための努力を継続せねばなりません。そうでないと、容易に偏狭な教条主義に陥るからです。

そういった意味で、懐疑論者は否定派とは異なるものですし、決定的に区別されるべきだと考えます。ただし、このカテゴリでは、否定的な主張をすれば、結果として、正しい結論になっている場合が多いため、システマティックに否定的な態度で接する方針は、誤信を避けるという意味では、一定の合理性を見出すことができることを強調しておきます。

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Q.懐疑論者には夢がない、ロマンがない。貴方にはロマンが判らないだけではないか?

A.ミステリーサークルピリレイスの地図を無批判に信じていた人が、懐疑論者によって決定的に暴かれ、事実を突きつけられたとき「懐疑論者は夢がない」とか「ロマンがない」という苦情を吐くことがあります。ですが、それはただの負け惜しみでしょうね。

そういった苦情は「私はピリレイス地図にロマンを感じていた。ところが、懐疑論者はピリレイスの南極地図を見ても、疑うことや、否定することしかできない。なんて、偏狭で頑迷な連中なんだろう。こいつらは、夢もロマンもない哀れな連中だ。私は、ロマンがある方が良いのさ」といった文脈から出てくることが普通です。

しかしながら、そういった苦情は、知的怠惰を正当化するためだけの自己欺瞞的な方法による価値観の相対化でしかありません。それに、私が見た限り、懐疑論者はどちらかというと知的なロマンを抱いた人の方が多いので、明らかにそれは事実と異なります。

説明しましょう。

私が抱くロマンと、ヨタ者が負け惜しみで言い放つそれとの相違点は、自己欺瞞に陥った人達の空想にはロマンを見出さないという点です。なぜなら、知的ロマンとは、そこに真実への期待があってこそ、初めて真のロマン足りえると思うからです。

たとえば、21世紀のテキサスに、未発見の黄金都市遺跡を探索しにいくことを、私はロマンだとは呼びません。あるいは、恥を掻くと、すぐ切腹する極東の民族ニッポンジンを探索しに、現代の東京へきたフランス人を、私はロマンチストだとは思わないのです。

他の人だってそうではないのでしょうか?ミステリーサークルピリレイスの地図だって、その背景を知っていれば、そういったヨタ話と同程度のことだと判るのです。

ただの怠惰と欺瞞によって、わざわざロウソクを消してから、暗闇にありもしない神秘を空想し、それを追い求めることなんてのは、ぜんぜん夢もなければロマンも希望もないということです。

もちろん、オーパーツには興味深いものがあり、少なくとも私は、それ自体とても好きです。アンティキシラの歯車のような、実際に考古学の発展に寄与した元オーパーツだってあるのですから。

想像力の貧しい連中の勝手な決め付けを無視するなら、その不思議さと古代人の技術と叡智と活力に、心から驚嘆し畏敬の念を抱けますし、なにより知的スリルとロマンを感じます。

そして、それが空想や妄想、疑似科学と呼ばれるほどデタラメになってしまわない限りにおいてのみ、知的ロマンは真のロマンとしての地位を持つのでしょう。

そして、知的ロマンがデタラメというヨタ話の世界に逝ってしまわないための最良の指針は、知的好奇心と健全な懐疑精神の両立であると思うのです。

たとえば『古代文明の謎はどこまで解けたか』や『脳のなかの幽霊』は、健全な懐疑精神と知的好奇心が融合した、知的ロマンに溢れるお手本のような充実度を実現しています。

後者にいたっては「科学者であれば皆、健全な懐疑精神と知的好奇心が必要だということを知っている」といった名言さえあります。

つまり、そういった知的ロマンと真実の探求は、本来的に両立しますし、何より掘り下げる先には、さらに未知なる何かがあるのです。一方で、偽のロマンは、掘り下げようにも掘り下げる底がありません。そんな陳腐な主張にロマンを感じるなんてことは、もったいないと思いませんか?

ともあれ、「懐疑論者にはロマンがない」という主張は、完全に誤っているのです。

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Q.パスツールやウェゲナーも笑われた。懐疑論者は同じ過ちを繰り返している

A.そして、このゴールドバッハ予想を「証明」したつもりの人も笑われます。

つまり、初歩的なミスや勘違い、不勉強にもかかわらず、大発見をしたと吹聴し続けたり、信奉したりしている人々というのは、充分に笑われる場合があるのです。

なるほど「悲劇の天才、現代のパスツール」になるためには、大発見をしているのに偏狭で頑迷な連中から笑われた、という事態を実現せねばなりません。

しかしながら、そのような事態を実現するための「笑われる」という条件に関していえば、比較的、難易度の低い条件でしかありません。はっきり言えば、大発見をしているという条件のみが難関だということを知っておいてください。でないと、恥ずかしいですよ。

さて、次に「現代のパスツール気取り」さんや、その信奉者さんが発言する場合よりも、ほんの少し意味のありそうな問題も検討の余地があります。

それは、懐疑論者が18世紀の隕石否定論くらい、理不尽で深刻な間違いを犯している可能性はないか、という問題です。

そもそも、こういった文脈で、現代において笑われる連中というのは、いわゆる「トンデモ」と呼ばれる連中や、もう笑うしかないほど頑迷な疑似科学者連中とシンパです。

そうした対象のなかで、たとえばニャントロ星人が5千円札にこっそりと猫の絵を書き込んで地球を支配しようとしているなど、真面目に主張している場合、本人が真剣であるからこそ、つい笑ってしまうのは仕方ありません。この「本当に愉快だから笑ってしまう」場合は、仕方ないことです。

しかしながら、懐疑論者は、他にも笑う場合があります。それは「どちらかというと戦術的な色合いの強い嘲笑」です。

この戦術は「抱腹絶倒1回は三段論法1000回に勝る」という言葉が表すように、疑似科学的主張の増殖を防ぐという意味で、実際に成果を挙げてきました。

たとえば、マーチン・ガードナーの『奇妙な論理』は、その代表ですし『トンデモ本の世界』や『気になる資料室』は、ときに意図せずとも疑似科学への抵抗という意味で、三段論法1000回に勝る成果を挙げたといえるでしょう。

私個人の立場からは「愉快だから笑ってしまう」場合以外に、戦術的な理由で、笑いを使う方法は、あまり賛成しません。

なにより、この戦術を未熟な論者や、考察不足なのに否定を目的としている者が採用する場合、本当に正しい人を見失ってしまう可能性が出てくるからです。

とくに、にわか懐疑論者や自称否定派が、科学的な取り扱いを受けるべき異端的な学説や蓋然性が低い仮説の主張者を、十分な考察や理解を伴わずして、安易に「と」のレッテルを貼ったり、疑似科学扱いしたりして笑う姿には、かなり批判的です。

以上のことを踏まえると、戦術的笑いが正当性を持つのは「徹底的に間違えているか、無価値であることが明らかな主張」という条件を満たした場合のみということになるでしょう。

つまり、特定の主張を戦術的な理由で「笑う」場合は、その主張がどのように誤りであるか、真面目な懐疑論を展開できるだけの知識と考察に裏づけられていることが必用と考えます。

このような原則が守られている限り、戦術的な笑いも、現代のパスツールを生み出す可能性は限りなく低いといえるでしょう。もちろん、この原則が守られていない場合でも、笑われる連中の中に「現代のパスツール」がいる可能性は、ものすごく低いことは言うまでもありません。

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