AX 無神論者の神秘体験報告記

 

Information 懐疑主義関連 個別案件情報 懐疑論者FAQ その他の話題 懐疑主義的LINK Skeptic's Profile
 

無神論者の神秘体験報告記
(Report of mystery experience )


 ・はじめに

 私は無宗教環境で育ったし、およそ心霊主義的な概念全般から神にいたるまで、直観的なレベルでは否定していることを認めざるを得ない人間である。

私は、確かにそうした世界観を持っているのだが、何を隠そう、多くのビリーバー以上に、濃密な神とのアクセス体験をしたことがあるということを力説したい。

その体験は、2003年に違法化される前にマジック・マッシュルーム(以下MM)を週末の楽しみという感じで摂取していた頃の話である。世間では「毒きのこ」とも呼ぶこともあるが、食べてもスーパーマリオが食べているアレのように、肉体が過度に肥大する効果は確認されていない。

私は、アルコールのようにキツいドラッグを好まないため、規制前は、ゴールデン・クベンシスという銘柄のMMが週末の楽しみであった。その主要な成分はシロシンとシロシビンといい、乾燥したMMを経口で適量摂取するだけで効果が得られる。

これを適量摂取するとどうなるか。

まず、視覚がサイケデリックになり、見えるものが美しくなる。そして、どこが気持ちよいのか表現できないような、優しく温かい純然たる快感、多幸感に包み込まれる。また、壁の模様から家具まで、呼吸をしているのかのように脈打って動くような幻覚が訪れる傾向にある。

「傾向がある」という表現をする理由は、MMに限らず、意識を変容せしめる多くのドラッグは、ビールや日本酒に代表されるエチルアルコールのように「酔い方・効き方」に強制力があるとは限らず、変容した意識体験の質が、もう少し多様だからである。

そしてMMの場合は特に、摂取するときの精神状態や環境(音楽や雰囲気、場所、一緒にいる人)による影響が大きいと思う。なので「傾向」と表現した。

肉体的な依存症は皆無で、また、耐性が出来やすいこともあり、連日で摂取しようとしてもすぐに効かなくなり、量を増やした程度では追いつけないため、連日で摂取するには向いていない。

生理学的な意味では、肉体依存を含む人体への害は確認されていないが、後日のフラッシュバックや、ネガティブな効き方(バッドトリップ)をした後に鬱病を発症したり、パニックになって事故を起こしたりする二次的な弊害はある。アルコールのように過剰摂取による死亡事故や、暴力事件の誘発は確認されていない。このあたりは大麻も同じである。

さて、現在こそ非合法な薬物として―私の基準では―必要以上に悪く思われているMMであるが、マヤ、アステカを含むアメリカ先住民の文化では「神の肉」と表現をされることもあり、古代のシャーマニズムでは、特に神聖なものとされてきた。

なぜなら、MMを摂取すると、先に述べた症状ばかりか、しばしば、強烈な宗教体験を味わうことがあるからである。

とても面白いことに、どうやら「神」体験や宗教的ビジョンというのは、文化の影響によるアレンジはあるにしても、独特の「宗教性」をまとった脳に根差す人類共通の知覚・感覚があるらしい。

経験的知識としても、側頭葉てんかんの患者が発作を起こしているときに、しばしば神の降臨や神との接触など神秘体験をすることが知られていて、「神は側頭葉にいる」というジョークもある。

その感覚は激烈で、神秘体験を伴う発作の後、偏執的なほど宗教がかった性格に変貌してしまう事例もあり、その独特の性格を「側頭葉てんかん人格」などとも表現する者もいる。

他にも、宗教者が、苦行でも遭難でも、とにかく脳を含む肉体が過度なストレスにさらされた状況下にあって、そういった神秘体験を報告している事例も知られている。

ちなみに、こうした現象に目をつけたカナダの神経学者パーシンガーが、磁気刺激装置で側頭葉を刺激することで、神秘体験を起こせたという実験結果を発表し、注目を浴びたことがあるが追試の結果からは支持されていない。

思えば、脳の身体地図などを作成し、脳神経科学を切り開いたワイルダー・ペンフィールドの実験を振り返ると、それも当然のことだったのかもしれない。

その有名な実験は、脳外科手術の際に、局部麻酔だけで開頭し、露出した脳(大脳皮質)のいろいろな部位に対して局所的に電気刺激を与え、覚醒している患者に何を感じるかヒアリングするというシロモノ。

もちろん、側頭葉に対しても行なわれており――というより、側頭葉への刺激が、最も興味深い知見が得られたことでも有名で、被験者(患者)によると、側頭葉を刺激したときは、極度に鮮明でリアルな記憶を追体験したり、対外離脱して空中に浮いているような感覚が生じたという。

かように側頭葉は興味深い領域なのだが、そういえば神秘体験は生じていない

露出した脳に、直接的に電気的な刺激を与えても神秘体験が誘発されないならば、パーシンガーの実験のように、ヘルメット型の磁気刺激装置によって、頭蓋骨と頭髪の外から刺激を与える程度でペンフィ−ルド以上の成果がなかったとしても、当然なのかもしれない。

ペンフィールドの実験については『脳と心の正体』(『脳と心の神秘』)に詳しい。近年のその手の実験については『スピリチュアルワールド見聞記』にて紹介されている。

話が逸れた。

なかなか難しいが、私が味わった神秘体験の感覚を表現するならば「神との接触」という経験可能な感覚的クオリアがある、と表現できるだろう。

クオリアとは、たとえば人間が見ている赤の色そのもの、その「赤の質感」そのものを指す言葉でクオリアqualia)の他に感覚質とも呼ばれる。

用例としては「私の赤と他人の赤は同じクオリアか?」とか「私の赤と彼の緑のクオリアが完全に入れ子になっていた場合、それは実証可能か」「クオリアの問題は疑似問題だよ」という感じだ。

そうした感覚的なクオリアには、「熱い」「甘い」「ドの音」「赤」「青」「硫黄臭さ」「指を曲げた感じ」などなど、膨大な量があるわけだが、人間が経験しうるクオリアのなかには、「神と接触した感じ」と表現するに足る、感覚的クオリアが確かに存在するのだ。

そうした特赦な感覚質は、味や色など大多数の人が体感するそれとは異なり、何かよほどのこと、それこそ側頭葉てんかんの発作などでしか経験する機会がない感覚質でもある。

しかしながら、そういった特殊な感覚質ということだけであれば、幻覚剤を代表とする、意識を変容せしめる薬物などの摂取によって生じる多様な感覚は、どれもこれも特殊な感覚質であり、私が体験した神秘体験もまた、MMの摂取による幻覚体験のうちに生じた現象である。

なお、専門的な分類は知らないが、幻覚という体験には、大きく4種類あるというのが私の経験則である。簡単に説明しておきたい。

第一、錯覚の延長としての幻覚。

 これは、徹夜を続けた経験があれば理解できるかもしれない。たとえば遠くのゴミ袋が人間に見えたり、家具が変な動物に見えたりすることがあるが、そういう種類の幻覚を「錯覚の延長」としての幻覚とする。「凄く異常な見間違い」とも表現できる。

第二、無関係な映像が出てくるもの

 これが「幻覚」というときの代表的なイメージではないだろうか。見た目上は実在の人物と区別がつかないほどしっかりした人間が出てくるといった幻覚だ。もっとも、私は、この手の幻覚で、そこまで鮮明かつ創造的でしっかりとした幻覚としての何かを見たしたことはない。ただし、薬物の影響で、5cmくらいのピンクの半透明な回転する長方形が、床の上に、しっかりと見えていた経験もあり、それは創造的な幻覚であった。この意味で、創造的な幻聴なども、同じ種類の幻覚体験になると思う。

なお、MMを摂取したときの特徴的な幻覚でもある壁の模様や家具が、呼吸をしいているかのように脈動する幻覚は、この1と2の間にある幻覚だと思われる。

第三、感覚が普段とは異なった仕方で知覚されるなど異様な体感。

 幻覚という分類で良いのか疑問はあるが、ありがちなのは、共感覚的な幻覚体験で、音楽に色がついて見えるという現象。リズムに合わせて青の色がバウンドするなど、視覚と聴覚の合体したような体感で、説明が難しい。

その他、何も具体性が無いのに「全てを知った」かのような、真理を悟ったと確信してしまう感覚体験もある。身体イメージがバグってしまい、体がずれている感覚などもある。至福の多幸感に全身が包まれる体験なども含めて良いのかもしれない。

第四、意識が丸ごとトリップするもの。

 これは、まさしく「トリップ」するもので、近い感覚としては、夢を見ているとき、完全に別世界にいるわけだが、それと似た意味で、意識が別世界に丸ごといってしまうという体験である。宇宙を漂っていたり、対外離脱して街の上空を飛んでいたり、きらきらした世界のなかにいたりするなど多様である。

しばしば、こうした対外離脱体験の感覚を経験したものが、自分は本当に対外離脱して街を上空から観ていたと主張するのだが、そうした行動でしか得られない情報を得ていたという信頼できる事例はなく、脳内体験と判断すべきだと思う。

さらに、こうした完全なトリップも、幻覚を誘発した物質によって種類がある。

というのも、本当に実験的な意味で、一度だけ5MEO-DMT(-DIPTではない)というケミカルを摂取したことがあるのだが、そのときは、凄まじい体験をした。

後頭部を殴られたような衝撃の後、完全に真っ暗な空間にいて、ひたすら猛スピードで、そう、ジェットコースターに乗ったような速さでビューと一方向に吸い込まれるべく飛ばされる体験があったのだがMM等では経験しない種類の体験である。

以上、幻覚体験に関する私の勝手な分類だが、本項の主題である神秘体験は、幻覚体験のなかでも第四の「トリップ」のなかで生じる第三の「未知の体感」に相当する。

以上、前提知識とする。

 ・神秘体験報告記

 そういうわけで、私は、週末にMMを摂取することがしばしばあったのだが、無神論者である私が、極めて強力な宗教体験――もっとはっきり言えば、「神」との接触としか表現しようがない体験を、何度か経験している。

私にとって、初めての神秘体験は何度目かの摂取で訪れた「神」との接触体験だった。

ここで、おいおい無宗教育ちのお前が、なんで「神」なんて判断できるんだ?

という、至極ごもっともな突っ込みは想像できる。

だが、仕方が無いのだ。体験者にとっては「おおおおおお〜これが神か!これが神だ。うぉぉ」としか言いようのない、「神」という表現がぴったりなのだからしょうがない。

絶対的で偉大で暖かく心地よい何者かが、直接自分の意識に溶け込んできて、果ては私の意識に溶け込むというか包み込むというかするのである。これは、体験しないと説明が困難を極める感覚質でもある。

これは、赤白しかない部屋で健康に成長した人に「青」がどのようなクオリアであるかを教えることができるか、という問題と本質的に同じである。(余談だが、盲目の人が成人した後に視力を得た事例では、世界を三次元的な映像として認識することはできなかったが「色」のクオリアを初めて体験している。『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』参照)

また、卑近な例で恐縮だが、射精時の性的快感を体験したことがない人物に、その快感の感覚質そのものを、適切に理解させることができるかという問題とも同じである。

さて、私は「神」と表現するが極めて妥当に思う宗教性に満ちた感覚を経験するや、私は、自然と敬虔な気持ちになってしまった。それは意志の問題ではなく、悲惨な状況に感情移入したとき、胸を痛めることと同じくらいの強制力で、敬虔な気持ちが内発的に生じてきたと表現できよう。

そうした初回の神体験は素晴らしい体験であった。

「おお、これが神か!これは神だろ!」という神感と多幸感をたっぷり味わった後、ついには、神との対話までおっぱじまる始末。

それは、自分ではない存在からの内なる語りかけといった具合で、シラフならば真っ先に統合失調症の発症を懸念すべきであるが、飛ぶ気満々で摂取しているため、その心配はしない。

そんな神なる存在とのやりとりは、実に身勝手なもので、私の過去の罪、罪悪感を「お前は赦されたのだよ」といった感じで、神様のお墨付きのもと、なぜだか理由も根拠もなく、一方的に完全に赦してもらったのである。

実は、その体験と関係するが、私は、中学一年生の頃から1年あまり、陰湿ないじめっ子だった。

当時、それが悪いことだとは思わず、生真面目な性格が災いし、やるならば徹底的でなくてはならないと思って行動していた。自尊心を潰し、精神的なストレスが最大になることを真面目に追求していた。人間の集団では必然的に生じるべきことだとさえ思っていたのだ。

ただ、暫くして友人グループも変わり、色気付いてくるようになると、それが醜悪で格好悪いことに気がつかされた。すると、今度は、当時の自分を思い出すと、自分の醜悪さに苦しみ、さらに、その罪悪感だけは、私にとって、ずっと残り続けていた。自分が許せなかったのだ。

かつて誰にも言ったことがない秘密だったが、ドラッグに好奇心むき出しで誰が見ても反社会的な進路を歩んでいた高校在学中、私は、登校拒否していたクラスメートの家まで、何か状況が良くならないかを期待して、ゲームの攻略を教わりに訪問して仲良く過ごす時間を過ごすなど、無意味かもしれないが、自分なりの応援のつもりで動いていたこともある。

私は、そういった思いもあって、中学三年生頃、そして高校、もっと言えば反社会的集団のなかにいたときですら、いや会社でも、いじめ的な空気を認知するや、いじめる側を軽蔑する空気を誘導し、貶め、いじめられる側には、彼や彼女の面子を潰さないような方法で、一人の人間として敬意を払って接することで、状況が改善されるきっかけになるよう振舞っていた。

それらの行動は、意識こそしていないが、全て、罪悪感に起因していたと思う。

私にとって、自分がかつて行なっていた行動は、字義通り悪夢にもなっていた。私は社会復帰した後も、25歳くらいまで、散発的に、誰かをいじめているか、目撃しているような夢を見て、自分の血管が黒い色になっている夢などを見ることがあった。

それは悪夢で、夜中に汗びっしょりで起きてしまうことがあり、すると、酷い嫌悪感と不快感だけが残っているのである。幸いにも、そういった夢はだんだんと見なくなり、いつしか完全に忘れていたほどであるが、MMで神体験をした頃は、まだ、そういった夢をマレに見ていた頃であった。

そうした自分の罪悪感を含め、大小様々な、いろいろな罪の意識が、神様から直で赦してもらえたわけだから大変である。

そのときの私は、感動のあまり、しらふに戻るまで泣いていたのだ。

そして、自分が両親から愛されて育ったことにずっと感謝し続け、私はやり直さねばならない!と、わけもわからず誓ったり―おそらく誤ったキリスト教観の影響で―鐘の音が鳴り、キラキラ上から降ってくる輝きとともに祝福のラッパが鳴り響くといった素晴らしい宗教的体験をした。

あれは神としか言いようがないモノとの接触というべき体験なのだ。

さらには、当時、完全に縁を切っていた悪い知人たちに、感謝とお詫びの電話をかけようと思い危うく連絡をとるところだった。そこで、はっと自分の行動を理解し、それは止めることができた。しかし感動の余韻はあり、引き続きそれに浸っていたのである。

他にも、神とのアクセスではない、特筆すべき宗教的体験もある。

なんといっても神の降臨対話と並ぶびっくり体験として、万物との一体感「全てはひとつ」の感覚である。自分の意識と、身体、色や音や空間にいたるまで、とにかく全てが、ものすごく滑らかにひとつのものとしてリアルに感じるという体験である。

どこまでが自分なのか区別できないような融合体験であり、宗教的な性質、感覚であった。

そして、極めつけは、全てを悟った「真理を手に入れた感覚」つまり全能感というのもあるのだが、これは素晴らしい体験でありながら、とても怖い事実を示唆している。

どういったものかと言えば「これは絶対に真理である」「全てを理解した」という強烈な感覚だ。

しかしながら、恐ろしいことに、中身が何もない!ただその感覚だけが生々しい。

「おお!これが真理か、私は悟ったぞ」という、ただそれだけ。

あるいは、しらふにもどれは実に他愛のないアイデアだったことに気がつけるようなタワゴトを、「究極の真理」だと確信してしまう現象もある。

例として、私が「宇宙創生の真理」として感動に震えたものを紹介しよう。

それは、ノーベル賞受賞者ながら駄目な超能力研究に転向したブライアン・ジョセフソンが、ビデオで「ビッグバンというのは最高精神というものの思考の結果みたいなものでしょうな。一種のESPみたいなものです」といっていたのを思い出し、これまで散々バカにしたことのあるセリフなのに、それをふと思い出すや、「おお、確かに無から有が生まれるのは、精神が思考を生むのと同じだ、最高精神こそがビックバンの起源 、そして真理なのだ!」などと、救いようないほど陳腐な理解を「究極の真理」だと強く確信できてしまったのである。(シラフになるまで)

私にとって、この体験は重要な教訓を教えてくれた。

人間が何かを「真」だと直感し、確信する感覚というのは、知性に由来し、人間が数学における証明を可能足らしめるもので、客観的な外在としての真理というものが先にあり、それと近い何かに知性が接近したとき、理解によって初めて生じるのだと私は思っていた。

だから、ただ「これは絶対に真理である」「全てを理解した」という感覚のみが、独立して生じたという体験は、私の抱く世界像に変更を強いるものでもあった。

そして、私がこの体験から得たことは、宗教にかぶれる人格でも、悟りを開いたという勘違いでも、究極の真理を体験したという興奮でもなく、さらには絶対的真理は精神のみによって知覚可能である、などという結論でもなかった。

そうではなく「これぞ真理だ!」と強烈に直観し、強く確信したとしても、それでも尚、それが無価値であるかナンセンスなものである可能性が、常に存在し続けている、という気づきであった。

思えば疑似科学者やスピリチュアルの連中は、過剰な確信(cocksureness)に無頓着なまま、知的怠惰を重ねている。自分は得難い真理を手にしているかのように達観し、賢人気取りの者も珍しくない。

そう、健全な懐疑精神というものは、知性がそんな風に錆びいてしまうことから身を護るための理性という最期の砦なのだという認識を、神秘体験からも得たわけである。

だからこそ、たとえ何かを強く確信しても、客観的で充分な検討を経ずに、陳腐な主張を究極の真理扱いするような人間にならないために、自分の世界像や宇宙観を構成する知識についてはそれが絶対真であるとは自惚れないことや、そして、健全な懐疑精神の居場所を少しだけ残しておくことが、有用なのではなく、必要ですらあるということだ。

自他問わず人類の可謬性を、口先だけではなく心底から理解することは、大事な内面的な体験なのだろうとも思う。

と、まあ以上が私がMMで数回だけ経験した宗教性の高い体験であり、なかでも「神」としか表現しようがない何かとの接触は、神秘体験と表現するに申し分のない体験であった。

私は思う。

宗教は人間が作り、神概念に対する意味付けも人間が恣意的に行なったことは論を待たない。しかしながら、同時に、脳に根差す宗教性に満ちた「神」っぽい感覚の存在は、かつて、宗教性のある概念に格別の価値を付与し、体験者を崇拝の対象として特別視する役目を果たしたかもしれない、と。

想像して欲しい、人類は社会動物であるが、進化の長い時間、そして、つい最近までは、ほぼ全ての期間を、最大で100人程度の小集団で毛皮パンツを履いて暮らしていた。

そして、私たちホモサピエンスが、世界から排除した他の霊長類まで含め、しばしば、死者を悼み、明らかに宗教的な意味づけのある埋葬をしていたことなどが判明している。

そういった集団のなかで、ある日、毒キノコを誤食したり、遭難して死の淵にいたったものが、私が味わったような「神との接触」を体験したらどうだろうか。

そうした稀有な経験は、人々が、宗教的真理を見出そうとする動機を与え、人類がこれまでに編み出した多くの宗教が成立する黎明期に一定の役目を果たしきたことはないだろうか。

また、神秘体験の直接的な影響はさておき、こうした脳に根差した神秘体験の存在は、人間の脳に、宗教を生み出すことが当然と言えるような神経科学的な基盤が存在していることを示唆しているように思う。

こういった疑問は、現時点ではいまだ明確な回答どころか、適切な問題設定すら難しいが、将来的に、脳神経科学と進化心理学を包括する学問が出てた暁には、きっと、より深く妥当な理解が得られるはずだと確信している。もっとも、その確信は誤りかもしれないが。


関連書籍(×参考文献→○本稿関連書籍)

・ペンフィールドの脳を露出させて刺激する実験などは『脳と心の正体』(『脳と心の神秘』)
・近年のその手の実験については『スピリチュアルワールド見聞記
・ノーベル賞物理学者のブライアン・ジョセフソンのことは『科学は心霊現象をいかにとらえるか
・盲目の人が視力を回復した話『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』※脳関連
・心脳問題は『マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉』同〈下〉
・『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』※他にも良書がたくさんある。
・『ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉』には感覚遮断タンクで幻覚体験をした話が収録。
 


 懐疑論者の祈り > 神秘体験報告記(Report of mystery experience )

このエントリーをはてなブックマークに追加