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なぜ批判するのか
Why are you criticizing?

 

 はじめに

 ・ちっとも愉快じゃない

 ・愚かさから詐欺への連続性

 ・善意と無知という最凶の組み合わせ、理不尽な悲劇

 ・社会的な悲劇

 ・知的倫理

 

はじめに

 私達の歴史において、人々が非合理を求め、事実よりも希望や信念を追い、疑似科学的な与太話を擁護するとき、あるいはそれが権力と結びついた場合に、何が起きてきたでしょうか?私はこの問いかけが、実害批判だけでなく、いや実害批判よりも非合理批判が重要であることを意味すると思います。
 ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』や、デニケンやハンコックの宇宙考古学もの、江本勝の『水からの詐術』の場合は、何か目に見える直接的な被害は起きなかったかもしれません。
 しかし、そもそも与太話を廻る環境には、不思議なほど横のつなががあります。たとえばロズウェル事件をエイリアンクラフトの墜落事件だと信じ、同時にスプーン曲げを超能力だと信じる。権威や教科書が言うことは、必ず間違いであるとする一方で、チャネラーの言葉にはうっとりとする。そして病気の家族に手かざしをする…、最悪の場合、回避できたはずなのに愛する人を死なせてしまうかもしれない。この与太話環境に存在するタワゴトのつながりは、そのことが問題なのではなく、それらを受け入れていく 認識論に問題があり、自己欺瞞の産物であるという部分に注目しておきましょう。
 さて、ビリーバーであることや、非合理的であることで、何か問題があるんでしょうか?
私の答えははっきりYESです。では、そういった部分をもう少し考えていきましょう。

[ちっとも愉快じゃない]

 私は、超常現象が大好きです。ほとんどの事例が、何ら重要な真実を含んでいなくてもなお、その真相の追究、つまり否定的な解決にいたろうとも、それをひっくるめて大好きです。
 さらに、ごくまれに、信頼できる調査者が徹底追求したのに、原因がさっぱりわからないネタに出会ったときは、心底のお宝候補なのではないかとワクワクします。いまのところめったにありませんが、たとえば巨大な氷や蛙や魚の雨は、竜巻や飛行機では到底説明できない奇妙度なものがあり、真相が知りたくて仕方ありません。また、球電現象は、ながらく超常カテゴリにいましたが、これまた確認され、いまでは科学に組み込まれています。なんて面白い!

そういうわけで、お宝候補の探求と、否定的解決、つまり事実に興味があるわけですが、昨今のビリーバー的な論調では、なんでもかんでも同列にしやがるのですからたまりません。

ミステリーサークルやバミューダトライアングルなんて、もう徹底的に暴かれていて、ニセの不思議もいいところです。それと、いまだにグレーにあり続ける、ほぼ例外的な異常落下物や、一部の人体自然発火などを一緒にするんじゃない!それが素直な感情ってもんですよ。もちろん、そのグレーが否定的に解決されても、科学的に新しい知識を加えることになっても、どっちも私は好奇心を刺激されるでしょう。

 そもそも、与太話の無批判な信奉というのは、最低のことでありましょう。だいたい理不尽で愚かな不幸にいたる例が、いっぱいありますし、ありました。熱心なビリーバーであれば、与太話が社会的な地位を持つことに貢献することもあるし、さらには本当に誠実な人々―信仰療法への警戒を促す真剣な医師―を、不当に迫害してしまうかもしれません。
 こんな不愉快なことがあるでしょうか。そして醜悪な疑似科学者やペテン師に利益を与えることにもなっています。

与太者が権力を持てば、あるいは権力を持つ立場の人が与太話を鵜呑みにすれば、ルイセンコ事件の再現になるかもしれません。また、教育に直結あるいは間接的に影響を持つ疑似科学の弊害は、測定こ そできませんが、深刻な問題だと思います。ただでさえ科学の方法を学び理解させる教育ができていないのに、なおいっそう、そういった機会や思考方法を奪うわけですから、非常に重い問題です。
Haunted第一に誤った知識を教えてしまうことは、教育において避けなくてはなりません。義務教育の教科書に載せることは、後に常識となる礎であることを、我々はもっと自覚しなくてはならないと思うのです。
 安易な天然神話、右脳開発教育、ビタミン療法、水は答えを知っている、思考は現実化するという努力の放棄、人種に関する偏見、血液型や星座によるステレオタイプを持って人を見る姿勢、創造科学 にID論、無知に基づく現代科学批判、超常現象全般を無批判かつ本気で信じる大人の姿、こっくりさんは危険だからダメというアホな注意、Haunted幼稚なロマン、選民願望を充足させる自己欺瞞増幅思想の植え込み、そして最大のことは、科学という方法を遠ざけてしまうこと…
 こんなこと、未来のアインシュタインやキュリー夫人の芽を摘む行為ではないのでしょうか?
オウム予備軍をせっせと作っているのではないのでしょうかHaunted?

実際にニューエイジ系与太話を信奉する主婦が、PTA会長に就任し「水からの伝言」や「思考は現実化する」という本を教師と生徒に読ませることなど現実の話なのです。なんとかなりませんか奥さん!
Hauntedこういった私の不満や感情は、魔女狩りなどの時代に比べれば、ぜんぜん高級で贅沢なものです。してみると、人類はずいぶんとマシになったもんだと心から喜べますし、この時代に生きていることは、なんと幸せなことかと感謝できます。
 だけども、この素晴らしい時代においてすら、私は声を大にして言いたいのです。我々大衆が、不誠実で自己欺瞞に酔った連中の与太話を嬉々として受け入れるなんてことは、ちっとも愉快じゃない!と。

 多種多様な疑似科学が、血をみることなく共存している現代社会の姿は、見方を変えれば平和の証でしょうけれども、それでも、それを吹聴する連中、そして無批判に支持する連中は、批判されるべきであると思うのです。もちろん 、連中を迫害せよ、といいたいわけでもありません。そうではなく、我々大衆が、知的主体性を持つことで、結果として疑似科学を受け入れないような社会の方が、よっぽど良いのではないかという 、素朴な想いです。

さらにいえば、健全な批判精神からであっても、それらを批判するとき、いかにも無粋な奴と思われる空気が、私は大嫌いです。いかがわしいものを、いかがわしいと指摘して何がいけないというのだろうか?江本勝を批判して、なぜいけないのか?批判することを弁護しなくてはならない社会なんてのは、あまりに不健康だと思うのです。
 とりあえず、感情論はここらで置いておきますが、教育面にかかわらず、事実を追うことをせずに事実を決めようとすることは、明らかに間違った知識を積み上げることです。それは結果的に頑迷さや排他性、事実の選り好みなどなどにつながるわけで、ほんっとろくなことがありません。 次に説明しましょう。

 [愚かさから詐欺への連続性]

 誤ったひとつの知識を、修正せずに抱き続けるためには、遅かれ早かれ事実を捻じ曲げなくては、その人の認知体系において矛盾をきたしてしまうでしょう。その場合、誤りを検出して修正することが望ましいわけですが、残念ながら認知心理学は、我々が誤りを修正したがらない傾向にあることを雄弁に実証してきました。
 人は、ときに知識を改める代わりに現実を捻じ曲げることを選んでしまうのです。その元凶は認知の機能全般に由来するわけですが、なかでも「確信」と呼ばれるものが現実を捻じ曲げる心の仕組みに強い影響を持っています。
 それは少し想像すれば容易に理解できるでしょう。かつて、健全な懐疑精神と知的好奇心を見事に融合させた人物としても誉れの高いダーウィンが、「確信は無知から産まれる」ということを述べました。この言葉は考えると考えるほど奥深いものがあります。

 世に永久機関を発明したと確信した市井の発明家は数多いわけですが、その一人ニューマンという人は、本気で永久機関を目指し、発明した、あるいは原理上は発明したと確信しました。ニューマンは科学的方法を知らないし、力学も―熱力学の第一法則と第二法則も―知らない男でしたから、科学者・技術者としては紛れもなく無能です。
 さて、予想されるようにこのエーキューキカンは、とても永久運動などしないのです。しかし支援者は既に出資してしまっている。成功しなくてはならないところまで追い詰められたニューマンはどうしたか?

彼は大量の電池を使った「永久機関」を造ってしまったのです。130個の電池を一つのバッテリーと称し、「たったひとつのバッテリーで何でもできます」というのです。

ここで気をつけなくてはならないのは、最初にニューマンが提案した「永久機関」とやらは、単なる無知に基づく誤謬と自己欺瞞の産物であり、それが全く無価値なガラクタだっただけであったという点です。彼は尊大で傲慢、無知で無能な愚か者ではあったでしょうが、明らかに詐欺師でもペテン師でもなかったはずです。少なくとも最初は・・・

しかし、どこかの過程で彼は間違いなく自己欺瞞に陥り「原理は正しいから、もう少しで完成するさ」などと自分に言い聞かせては、結果的に少しづつ、ずるをしていったのではないでしょうか。この場合は「うそつきは泥棒のはじまり」ならぬ「疑似科学的発明と支持者の存在はペテンのはじまり」という状況だったわけです。

 この例に限らずとも、常温核融合のときのポンズとフライシュマンも、やや状況は違うとはいえニューマンと同じ種類の欺瞞をやらかしていると云えるでしょう。彼らだって最初は成功したと思っていたわけです。そして確信していたのですから。

 これらの事例において、出資者やメディアがもう少しだけ慎重であれば、そしてそんな非現実的な与太話を無批判に受けれる者が少数であれば、ただの愚かさで終わっていたかもしれません。いや愚かさにすらならず、健全な科学的懐疑精神を発揮したことで誤信を改善した聡明さを語る逸話にすらなったかもしれません。私は誤信が愚かさになるとき、そして愚かさが詐欺になるとき、その罪はビリーバーやメディアも同罪だと思います。

 [善意と無知という最凶の組み合わせ、理不尽な悲劇]

 与太話による教育への介入だって、本人は良かれと思ってやっているのです。だけど皮肉なことに、そこに誤信―事実と異なったもの―があれば、善意と無知という最凶の組み合わせから愛する人を殺すことにだってなりかねません。

 疑似科学的な天才育児論のビリーバーである主婦が、セミナーのすすめるまま、危険なことを知らぬまま自宅の湯船で水中出産をしました。菌が繁殖している浴槽での出産だったために、感染症から死産になった痛ましい事件がありました。これだけでもやるせない理不尽な悲劇じゃありませんか?(ちなみに、このセミナーの教えに従って、同じく水中出産をして死産になったケースHauntedは複数あります。)
 そして、その主婦の悲劇は終わりませんでした。この母親は自分の愚かさを呪うあまり、親族や旦那との関係も苦しかったでしょうけれど、あろうことか包丁で心臓を突き刺して自殺してしまったのです。いったいどうしてこんなバカなことが起きるのか!
知識さえあれば、ほんの少しの健全な懐疑精神さえあれば、すぐに疑似科学だとわかる与太話だったのに。というのも、その育児理論はチャネリングやあらゆる与太話、そっちの業界にどっぷりなものだったからです。
 繰り返します。どうしてこんなことが起きる!私は倫理的な怒りとやるせなさを感じるわけです。知性を持つ人間にとって、あまりにも理不尽な不幸だと思うのです。

奇跡を売りものしている信仰療法の舞台で、半身不随で車椅子生活だった老婆が、奇跡的に立ち上がり舞台の端から端までを走り抜ける奇跡を起こした事例があります。(後の懐疑派の調査から、これは八百長ではなかったことが確認されています)ですから、施術者を含めてその場にいた全員がHaunted「本物の奇跡」だと確信したはずです。
 しかし、懐疑派による追跡調査の結果、老婆は無理やり立ち上がり、とても耐えられる体ではないのに走りまわってしまったがために、がんに侵されていた脊椎がボロボロに砕け、その晩から死ぬほどの激痛に襲われ苦しみ抜いた3ヶ月の後に死んでしまったのです。

この信仰療法の奇跡を信じた人々が、善意から寄付を行ったり、人々に信仰療法を熱心に薦めることも容易に想像できます。これらの例だけでなく、病気が直らないのは性格が歪んでいるからだ、信仰が足りないからだ、潜在意識が信じていないからだと、理不尽な理由で治癒しない我が身を責める患者、そしてその家族。

なんておぞましい、そしてなんという痛ましい苦悩でしょうか。医者にいかず自分の娘を断食療法で治療し続け殺してしまった両親。ビタミン療法で死亡した5人の児童。自閉症児のこころをタイピングして親に伝える伝達介護師は、わが子が自閉症ということだけでも苦しんでいる夫婦に追い討ちをかけるかのように、自閉症児からありもしない虐待の記憶を読み取ります。ただでさえつらい思いをしている夫婦が、社会的にもさらなる苦を負うことになったのです。催眠療法によってアプダクションの記憶を植えつけられたばかりに、婚約が破談になったという若い女性。

こういった与太話の信者が受けた被害は、確かに自己責任ですし自業自得です。だけど、自己責任であると同時に、その加害者である与太者と、それらを無批判に支持してきた人々も、そしてそこにある疑似科学や非合理もまた十分に検討される問題をかかえていると思いますし、けっして無罪ではありません。

[社会的な悲劇]

”人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望をおうことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる”  スティーブン・J・グールド

 私はこの言葉に同意します。中世の魔女狩り、異端審問、ナチスによる学問の破壊とホロコースト、ロシアの遺伝学を完全に壊滅させたルイセンコ主義の興亡、人種差別、聖書根本主義による反進化論、近年では偽記憶症候群―記憶回復運動―ここで取り上げた忌むべき我々人類の記憶は、軽信や狂信、疑似科学や与太話を抜きにしては成立しないものばかりです。

ここで私が注目したいのは「真実の探求」という前提を放棄し、本来は科学の土俵に乗るべき事象を宗教的ドグマや、権威者の都合、あるいは影響力のある人物の確信など、不純な動機―少なくとも真実を探求するという目的においては不純な動機―によって、何が真実であるかを定めてしまい、それが社会に公認されてしまったからこその出来事であるということ。

そして懐疑的な検討が拒否されてきたという共通点です。もし大衆の一人一人が、科学的懐疑精神を持っていれば、こういった被害は小規模になったのではないかと思うわけです。懐疑的に捉えることを放棄する姿勢は、誤りを検出することの放棄に等しいのですから、その意味で、何が真実であるかを恣意的に決定することや、懐疑精神の排除は社会的な悲劇の最高の種子と云えるでしょう。その芽を摘むのが、少数の賢人や啓蒙家ではなく、大衆一人一人の自覚であれば、どんなに素晴らしいだろうかと想わずにはいられません。

 私は次の言葉を噛みしめます。

 「権利と義務が不可分であるべく、懐疑と自由もまた不可分である」
 メンソーレ・タム(著) 倫理教本


 [知的な倫理―知識は正しくあるべき―]

 どうしても思うのですが、人間が宇宙の中心だったり、神様から特別扱いされていなくてもいいじゃないですか、と。
 もしかしたら人間はすごい愚かな傾向を持っているのかもしれません。であれば、それを無視するよりも、人間がどのように愚かなのかを知る方が、よっぽど良いことだとは思いやしませんか ?「信じたことは現実になる」なんていうのは現実逃避を賛美することと何ら変わりません。そうであれば人生は楽かもしれません。でもそれは「シラフでいるよりも酔った方がマシさ」というのと同じです。
私達の知能の副産物には、自己欺瞞やさまざまな認知的欠陥があることは事実です。ですから、そういったことを理解し、自覚することが何よりも救いではないのでしょうか。たとえ空想と現実を混同する大人が人口の数パーセント居るといった、認めがたくあり不快な事実であってもです。

 ここで私が言いたいのは、私達の知識は大事ですし、誤っているよりもより正しい方がよいという知的な倫理観です。

 前項で指摘した社会的悲劇だって、そういった素朴な知的倫理観が大衆のものであれば、容易に回避できたものではないのでしょうか。また、ここでいう知的な倫理観というものも、別に徹底的なことではなく、単に現代に流布する情報があまりに与太的だからこそ、そして我々がそもそもそういう誤信を積み重ねるような認知方法を持ってしまっているからこそ、そのバランスを取るために、ささやかな護身として持つべきだ。といった程度のことなのです。

さらに、現代は人類史でも特別な状況であることも見逃せません。たとえば出世後の致死率がすごく高かったり、識字率がすこぶる低く、文字を覚えることが罰せられ、平均寿命が50歳で明日食べるものに精一杯であり、生まれつき被支配階級であるようことが当然だったような社会であれば、「正しい知識を持ちましょう」などと言っても、はっきりいって無理だし残酷でしょう。

もし、当時の最下層の人々から『神の言葉を信じず、何故我々は隣人を愛すことができましょう!どのようにして心の救いを得られましょうや!』

などと信仰を胸にキラキラした眼で熱弁振るわれた日には、私は『ごめんなさい、m(__)mマジでそうっすね』としか言葉は出ないかもしれません。

そういうわけで、基本的人権や言論や思想、宗教の自由が前提とされている現代社会に生きる我々だからこそ、だからこそやっと持てる、そして持つべき知の倫理観であろうと私は思います。

誰がなんといおうと、現代の先進国に住む人々は、かつてないほどの識字率を誇り、思想と言論の自由があり、義務教育などという凄いシステムが採用された社会に生き、法律によって守られ、人権が尊重され、情報があふれ、TVや本がいくらでも有るという環境なのですから!平均寿命も長くHaunted、食べ物もなんとかなるんです。こういった社会に生きるわれわれは、もう立場がぜんぜん違うでしょう?
 なにも、昔になかった憂いができたことや、我々の苦悩がないなどとは言いませんよ。しかしそれを加味しても、現代社会は素晴らしいと思いませんか?
 そもそもが、こんなにも素敵な社会だからこそ与太話が大手出版社からも出され、いろんな情報が手に届いてもくるわけです。与太話がいっぱい手に入る。これは人類が、輝かしく誇らしい自由を手に入れていることの証拠でもあるでしょう。

そして同時に、そんな素晴らしい時代だからこそ、私達にとって、非合理を批判し健全な懐疑主義の元に客観的な事実を知ろうとすることが、なおさら価値を持つのだと思うのです。
 現代において、我々大衆に許された知的主体性が、歩みはバラバラであっても正さを求める方を向いていることは確かです。(政府が何か失態を隠していそうならば真相を知りたがるでしょ?)ならば、その歩みを補助するツールとしての科学という方法が、もっと使われてもいいのではないでしょうか。

そして科学という方法から大衆のための道具を取り出すならば、カール・セーガンが示してくれたように、それは知的好奇心と健全な懐疑精神のバランスを保つ精神だと思うのです。だから 、私は大衆の一人として疑似科学と非合理を批判します。

 最後にある二人の指導者の言葉を引用します。

 どうして知的好奇心などに助成しなくてはならないのか。
ロナルド・レーガン 1980年 大統領選演説

 何にもまして助成に値するのは、科学と文学であります。
 どこの国であろうとも、知識こそは、
 人民の幸福の土台として何よりたしかなものだからです。

ジョージ・ワシントン 1790年 議会演説

 私が言いたいことは、現代だからこそ、なお非合理を批判することが価値を持ち、倫理的にもそれは正当化されており、また、そのためには知的好奇心と健全な懐疑精神が、もっと我々大衆の常識に含まれるべきだという素朴な倫理的判断です。それはジョージ・ワシントンのほうが偉大な指導者である。という素朴な判断と同じ正当性を持つでしょう。


 
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