Q.あんた、いったい何様のつもりだ?
A.The Skeptic's
Dictionar風に回答しますが、この質問はつまり、私のような無学で研究者でもなければ、特別なところもない30男に、いったいどんな権利があって、無数の人々が長らく信じてきた知識や大学教授の仕事に、異論を述べたり批判したりできるのか、ということだと思います。
とくに私なんかよりずっと賢くて知的な人たちが、そうした知識(ダウジングや満月効果なども然りです)を支持してきたこともあるでしょうから、あなたには頑固で無作法かニヒリズムの行使に映るのかもしれません。
しかし、身も蓋もない言い方をしますが、誤信の形成と個人の有能さや支持者の数は、あまり関係ないということを指摘しておきます。
尊敬に当たる実績を持つような大会社の重役が、とんでもない与太話を信じていたり、数学史に名を残す大天才が「シェイクスピアの正体はベーコンである」という妄想的な仮説にふけって才能を浪費したりすることがあるのも事実なわけです。
それに、知的で良識のある大勢の人々がダウジングを信じているからといって、それを懐疑的に検討することは頑固で無作法なことになるのでしょうか?
私はそうは思いません。
無学で研究者でもない30男として主張しますが、たとえどんなに偉い人が言ったことでも、知識として額面通りに受けとって良いのか、または怪しいと思ったならば、むしろそれを合理的な水準で疑う権利を行使することが奨励されるべきである。と、私は主張します。
この態度は、極端な懐疑主義やニヒリズムではなく、より妥当な認知体系を構築するための、方法の一つとしての懐疑と、知的淘汰としての科学的懐疑主義を一般化した態度といえるでしょう。
本当に確からしいことなら、懐疑的な検討によってより確からしさが増し、誤りが検出されれば修正する機会を得られるのですから、少なくとも事実を知ることに価値を置く文脈においては、懐疑的な視点は実に理に適うと思います。
懐疑論者を苦々しく思う人は、信じることは美徳であり、疑うことは偏狭なことであるといった道徳的観念を、知識にまで適用しようとしているだけなのではないかと思います。また、穿った見方をすれば、懐疑的な検討によってボロが出ることを恐れていたり、うすうすと自己欺瞞に陥っている可能性に気が付いているからこそなのかもしれません。というのも、正しいならば懐疑的検討によって正しさが増すはずですから。
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Q.懐疑論者ってぶっちゃけ否定派でしょう?
A.断じてノーです。懐疑することは、自分が誤り易い人間であることを自覚した謙虚さを持つことであり、既存の知識に挑戦する新しい主張を、直感的な判断以上に妥当な知識にするための道なのです。
なにより、経験則であるし偏見ではあることを認めて回答しますが、超常現象の否定派を自称する人は、否定しいている話題に対して驚くほど無知であったり(懐疑論者には許されない暴挙です)関連領域の極端な馬鹿話を否定することで、その全てを否定したかのような非合理な否定論を展開している実例が目に付きます。
たとえば「お守りを捨てたりお墓を壊したりしてみても呪われなかったから心霊や祟りはウソである。」といった主張や「自分の肉体を構成していた原子が再度集まって肉体を再構成することなど、熱力学の第二法則から考えてもありえない。だから生まれ変わりはありえない。」という否定論などがそれです。この主張者は実在します。
私も、平将門塚にちょっかいを出しにいったりしましたが、それによって述べたことといえば「呪いというものはウソである」という安直な結論ではなく「将門塚は非常に強力なスポットであり、将門塚にちょっかいを出すと、必ず酷い目にあう。」といった通俗的で過激な与太話でしかありません。むろん、そこから短絡的ではない、様々な論を展開していくことは可能でしょう。
自称否定派と懐疑論者の大きな違いは「はじめに否定ありき」という確信の元に信念を固める傾向と、その度合いにあるかもしれません。
どれほど理想を言おうとも、懐疑論者も誤りやすき人間ですから、やはりそういった傾向は避けがたいようです。
しかし、健全な懐疑論者であろうとする者は、自分も人間であるからこそ、そういった誤信の種子が常に存在することを自覚し、自己の誤りを検出することにも価値を見出します。
もうひとつの差は(これまた印象論ですが)否定派は怪しい否定論を批判的に扱わない傾向があり、懐疑論者は、ある話題について同じ結論を支持している場合でも、怪しい否定論が展開されているならば、それを批判的に吟味し、却下しうるということです。
したがって、否定派という立場は、私が考える健全な懐疑主義の態度とは、相当に異なった立場といえます。
繰り返しますが、経験則であり偏見もあるかもしれませんが、私の知る限り、否定派を自称する人の多くは、自分が否定している事象に無知であったり、誤った仮定を設けて否定したりと、議論の質が低い傾向にあるのです。
また、同じ結論(ミステリーサークルはいたずらである)の場合であっても、そういった結論を導く過程が、懐疑論者と否定論者には差があると思います。そういったわけで、スタイルや意識や誠実さが違うという意味で断じてノーであるといいたいのです。私は懐疑論者である、と。
「確信は無知から生まれる」はビリーバーに対してだけの言葉ではないことを明言しておきます。
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Q.もし懐疑論者達が否定していた主張が、実は真実だと判明した場合に貴方はいったいどうする気だ?
A.そうですね。まず懐疑論者は個別の事例以外は否定しない傾向にあることを事前にお断りしておきます。たとえば、未知の相互作用としてのESPなど、否定的ではあっても、健全な懐疑論者ならば「原理的に存在しえない」とはあまり断言しません。
ただし、UFOでいえばマイヤーの写真や、ガルフブリーズ事件、ほかには、フランシスコ・ザビエルが河童だったという説、ライアルワトソンによる100匹目のサルなど、個別のことであれば否定することも多々ありますので、そういった事例が事実だった場合を想定して回答しましょう。
たとえば、ユリ・ゲラーが超能力(と呼べる方法)で、スプーンの首を曲げていることが判明した場合ですが、それがまさに客観的に存在している未知の相互作用だったのならば、私はそれを事実として認めるだけです。
判断という意味では、それ以上でもそれ以下でもありません。そして、物理学の革命に目を輝かせるでしょうね。
ただし、ユリ・ゲラーが超能力でスプーンを曲げているという主張が真実であったり、ガルフブリーズ事件が真のエイリアンとの遭遇事件だったのであれば、それを立証を助けるのは、懐疑論者である可能性が高い。ということを強調しておきましょう。
現代の懐疑主義は、メディアの不誠実さへの抵抗、組織化した非合理主義への対抗といった面も多分に持ちますが、知的淘汰としての、ごみクズの中から宝を探すことも儚いながらも希望なのです。
否定が目的ではなく、明らかな間違いを排除していく知的淘汰なのです。
無論、常にそれが守られているとはいえません。懐疑論者も人間であり、そして人間はそんなに賢くないようです。
ですが、これまでのさまざまな怪しい主張に対し、ビリーバー側よりも、懐疑論者のデバンキングの方が、かなりの場合において徹底してきたことは間違いありません。(誤った否定論を修正することもあります。)
現状で、ユリ・ゲラーの場合は、単に彼が元舞台奇術師であり、スプーン曲げは既にマジックとして存在しており、ジェイムズ・ランディとの対決から逃げ回り、実際にトリックが暴露されたからこそ、彼はインチキであると結論されているわけです。
ビリーバーはこういうことを調べません。懐疑論者とビリーバー、どちらが真実を見つけそうでしょうか?
しかも懐疑論者は、この状況ですら彼が本物だと判ったら、それを認めると宣言しているのです。こういうわけで、否定していた事例が後に真実だと判明した場合に、私はそれを事実と認めるだけです。
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Q.超能力が証明されたら認めるですって?いやはや信念がないというか・・・
A.どうして?「自分の誤りが検出されれば修正する」という姿勢は信念がないのでしょうか。そんなことはありません。思うに、そういった考えが出てくる背景には、「知識」に対する無関心さがありそうです。
実例を紹介しましょう。過去、次のような主張をした人がいました。
「超能力は存在すると信じます。
もし超能力があれば、一人でも本物がいれば正しいことが判ります。
ところが超能力は存在しないという人は、たとえ清田君やゲラーのインチキを暴いても、他に本物がいるかもしれませんから、永久に自分が正しいことを証明できない。
だから私は超能力は存在すると主張しますね。」
やれやれ。そもそも、不在の証明に関する認識などにも深刻な問題点がありますが、それはおいておきましょう。
ここで注目すべきは、その本末転倒ぶりといえましょう。
なぜなら、この発言者の主張は、
「もし自分が誤っていた場合でも、永久に誤りに気がつけないない方が良い」
という、しょうもない価値観の表明でしかありません。
知識の体系に影響する事実命題を判断するとき、懐疑論者は、それが誤りである可能性が残り続けることを受け入れます。
我々は誤りやすき人間でありますから、どれほど確信しようが、どこかで誤っている、誤信があるかもしれないのに、誤っていた場合に誤りを検出したり、誤りを修正することが出来ないなんてことは、私にはちっとも価値を見出せません。
そりゃ、懐疑論者だって人間ですもの。もし、自分たちの知識体系に重要な影響を持つような事実命題が、根本的に誤っているならば、それは嫌だし、怖いことです。
人間の本能が、「自分が誤っていた」ということを恐れ、ネガティブな反応をするのですから仕方ない。
たしかに、誤りは避けたい。人間の本能であり、かつ賢明だ。
けどね?
だからって「誤りに気がつくことが原理的にないような主張」にしがみつくような態度じゃ、何も得られません。
そんなときは、懐疑論者のように、知的な勇気をもって「誤りであれば修正する覚悟」を持ち、判断を下すストイックな精神性を身につけるようおすすめしたいところです。
知識の体系に影響を持つ事実命題に関して、真偽を後回しにしてはいけないと思いませんか?
私は自分が間違ったままでいるよりも、間違いであれば気づける方がよっぽど良いという知的な倫理感を持っています。
そもそも、本当は誰だってそう思ってやいませんか?少なくとも、現実世界の事象に対する知識が、客観的な事実であるという期待を持っているならば当然のことです。そのようなわけで、超能力が証明されたら認める=誤りを修正するという心構えが、信念がなくて呆れることだという発想は、稚拙であるか怠惰であるか、ケチで臆病なことですから、私は全く同意できません。
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Q.懐疑論者にはロマンがない。夢がない。貴方はロマンが判らないだけではないだろうか。
A.ミステリーサークルやピリレイスの地図を無批判に信じていたビリーバーが、懐疑論者によって決定的に暴かれ、事実を突きつけられたとき「懐疑論者は夢がない」とか「ロマンがない」という苦情を吐くことがあります。
ですが、それはただの奇妙な負け惜しみでしかないように思えてなりません。そういった苦情が意味するものは、
といった、知的怠惰を正当化するためだけの自己欺瞞的な方法による価値観の相対化でしかないのですから。
私が見た限り、懐疑論者はどちらかというと知的なロマンを抱いた人の方が多いので、明らかにそれは事実と異なります。
説明しましょう。
私が抱くロマンと、与太者が負け惜しみで言い放つそれとの相違点は、欺瞞に陥った人達の空想にはロマンを見出さないという点です。なぜなら、知的ロマンとは、そこに真実への期待があってこそ、初めて真のロマン足りえると思うからです。
たとえば、21世紀のテキサスに、未発見の黄金都市の遺跡を探索しにいくことを、私はロマンだとは呼ばないだけです。
恥を掻くと、すぐ切腹する野蛮な民族ニホンジンを探索しに、今の東京へきたフランス人を、私はロマンチストだとは思いません。誰かに担がれたバカ者であるか、事実の探求とは違う目的や動機を疑うでしょうね。
他の人だってそうではないのでしょうか?
ただの怠惰と欺瞞によって、わざわざロウソクを消してから暗闇に未知の世界を空想し、それを追い求めることなんてのは、ぜんぜん夢もなければロマンも希望もないということです。
このぐらいは判るでしょう?ピリレイスの地図、水晶ドクロ、巨石文明は人類には不可能だという主張、終末預言…、もう何度も暴かれているのに、ここ20年の考古学も、まったくそれを裏付けないというのに、そこから宇宙考古学的な与太話を展開するなんてことは、テキサスの黄金都市の探索と同じ理由で、ちっともロマンじゃない。
もちろん、オーパーツには興味深いものがあり、少なくとも私は、それ自体とても好きです。アンティキシラの歯車のような、実際に考古学の発展に寄与した元オーパーツだってあるのですから。
想像力の貧しい連中の勝手な決め付けを無視するなら、その不思議さと古代人の技術と叡智と活力に、心から驚嘆し畏敬の念を抱けますし、なにより知的スリルとロマンを感じます。
私は、それが異なった意見や異端科学というレベルをも逸脱し、空想や妄想、疑似科学と呼ばれるほどデタラメになってしまわない限りにおいてこそ、ロマンはロマンとしての地位を持つのだと思います。
私は、知的ロマンがデタラメという与太話の世界に逝ってしまわないための最良の指針は、知的好奇心と健全な懐疑精神の両立であると信じています。
『古代文明の謎はどこまで解けたか』(1),(2),(3)(著:ピーター・ジェイムズ,ニック・ソープ)や『脳のなかの幽霊』(著:ラマチャンドラン)などは、懐疑的であること、知的好奇心、そしてロマンが融合したお手本のような研究だと思いますし、後者には「科学者であれば皆、健全な懐疑精神と知的好奇心が必要だということを知っている」といった名言さえあります。
この意味で、「懐疑論者にはロマンがない」という発言は誤りであるといえるでしょう。もちろんロマンのない懐疑論者もいるでしょうけど、懐疑論者だからロマンがないということではありません。
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Q.パスツールやウェゲナーも笑われた。懐疑論者は同じ過ちを繰り返している。
A.カール・セーガンならこう答えるでしょうね「そして道化役者もまた笑われた」と。
もし、この苦情が、特定の疑似科学者ないし信奉者から提出された場合、彼に5秒でよいから頭を使う用意があれば、笑われたことを理由に現代のパスツールを気取る虚しさが理解できることでしょう。なぜなら、権威筋から笑われることが「悲劇の天才、現代のパスツール」になるための、難易度の低い必要条件ではあっても、十分条件でないことは自明ですから。
さて、次に「現代のパスツール気取り」さんや、その信奉者さんが発言する場合よりも、ほんの少し意味のありそうな問題に進みましょう。
それは、懐疑論者が18世紀の隕石否定論くらい、理不尽で深刻な間違いを犯している可能性はないか、という問題です。現代において笑われる連中は、いわゆる「トンデモ」と呼ばれる連中や、もう笑うしかないほど頑迷な疑似科学者連中です。
私の場合は、にわか懐疑論者や自称否定派さんが、科学的な取り扱いを受けるべき「異端学説」や「蓋然性が低い仮説」を、十分な考察や理解を伴わずに、安易に「と」のレッテルを貼ったり、疑似科学扱いしたりして笑う姿には、かなり批判的です。(実験考古学や超心理学の一部については特にです。)
ただ、そういった話ではなく、本当に笑ってしまうような連中がいるのも事実ではあります。たとえば、ニャントロ星人が5千円札にこっそりと猫の絵を書き込んで地球を支配しようとしているとか、三島由紀夫の霊に憑依された主婦が「猫だ!猫はうさぎから分かれた!」などと真面目に主張していたら、本人が真剣であっても、第三者にとって愉快なのは仕方ありません。
「本当に愉快だから笑っちゃった」のならば、それはしょうがないです。そして、注意して欲しいのは、この手のケースは、疑似科学と同じで「異なった意見」ではなく「でたらめな主張」であり、さらに、その中でも本当に愉快な主張なのだということです。
こういった、愉快なほど「おばか」な人の中に、現代のパスツールが紛れ込む可能性がありうるでしょうか?正直にいうと、私は論理的に考察する以前のレベルで、その心配はないと思います。
さて、懐疑論者は、他にも笑う場合があります。それは「どちらかというと戦術的な色合いの強い嘲笑」です。
マンガの『美味しんぼ』で、栗田をはじめ同僚達が「酸性食品・アルカリ食品の問題」を真剣に論じているのを聞いた主人公の山岡が、大爆笑してから、得意のウンチクを垂れる場面がありましたが、これなどが戦術的笑いの典型といえるでしょう。
この戦術は「抱腹絶倒1回は三段論法1000回に勝る」という言葉が表すように、疑似科学的主張の増殖を防ぐという意味で、実際に成果を挙げてきました。
たとえば、マーチン・ガードナーの『奇妙な論理』は、その代表ですし『トンデモ本の世界』や『気になる資料室』などは、ときに意図せずとも疑似科学への抵抗という意味で、三段論法1000回に勝る成果を挙げたといえるでしょう。
私個人の立場からは「愉快だから笑ってしまう」場合以外に、啓蒙を目的としてわざわざ「笑い」を使う方法は、あまり賛成していません。ただし、ときには面白おかしくこきおろしてしまいたくなるのも事実ですし、ついステキな皮肉(「考えることを止めた葦ですね」「卵を立てたコロンブス気取りですね」)などを思いついてしまうと、しばしば発言してしまいがちです。(私はその価値を肯定しない。)
なにより、この戦術を未熟な論者が行った場合や、考察不足なのに否定を目的としている者が行った場合、正しい人を見失ってしまう可能性が出てくるえるでしょう。
以上のことを踏まえ、戦術的笑いが正当性を持つのは「徹底的に間違えているか、無価値であることが明らかな主張」という条件を満たした場合のみであると考えます。
加えるに、懐疑論者ならば、特定の主張を「笑う」場合、その主張がどのように誤りであるか、真面目な懐疑論を展開できるだけの知識と考察に裏づけされていることを要求します。
この原則が守られている限り、戦術的な笑いも、現代のパスツールを生み出す可能性は限りなく低いといえるでしょう。
もちろん、この原則が守られていない場合でも、笑われる連中の中に「現代のパスツール」がいる可能性は、ものすごく低いことは言うまでもありません。
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Q.我々の認識する世界は、明らかに脳がつくりだした主観ですよね。なのに、どうして客観的な現実世界のことについて、誤りだのナンだの言えるのですか?
A.まず、懐疑論者にとって「ブタは飛ばない動物である」と結論することと、それが絶対的真理であるとすることは等しくありません。全ての結論が究極的には暫定です。このことを踏まえておいてください。
さて、我々の認識や意識体験が必ず脳を経由している以上、全てが主観であり、いわゆるバーチャルリアリティと原理的に同じである、リアルな幻覚である、という主張は、究極的には正しいと考える理由が十分にありますし、少なくとも私は同意することができます。
しかし、その「全ての認識は脳を経由した主観である」という主張は、実際のところ、それ単体では、自明で退屈な内容しかありません。問題は、そこに続く言葉です。
しばしば誤解されていますが、少し考えると、そのことは、「人間とは無関係に独立した客観的な世界が存在している」という、従来通りの素朴な世界観を即座に否定するものではありません。
ましてや、あらゆる事実命題に対して、認識論の話題に逃げ込むことの免罪符にはなりません。
たとえば、邪悪なマッドサイエンティストが、こっそりとあなたの脳を局所的に刺激したところ、あなたの主観においては、目の前に大木が現れ、触ればリアルな触覚も臭いも音もあったとしましょう。
この場合、あなたにとって、現実に大木が存在しているのかどうか判断できないかもしれません。
しかし、その大木は、脳を局所的に刺激することで生じた幻覚ですから、外部の世界には対応する大木が出現することはありません。
一方、現実に目の前の大木を触っている場合は、それに対応した大木が外部に存在していることを意味します。このように、意識は外部の世界から、単方向的な拘束を受けているといえるでしょう。
独立して存在する意識を持った人間が、自分以外にも存在するということを認めれば、純粋な幻覚体験なのか客観的世界のことなのか、確認できるわけです。(独我論を採用している人は、私に何をされても何を言われても自分が生み出したものだと認識してくれることでしょう。)
そういうわけで、意識体験の全てが究極的には主観的なものであり、バーチャルリアリティみたいなものであるとしても、外部に客観的な世界が存在しているということが、即座に無意味になるわけではありませんから、客観的な世界が何でもありということにはならないでしょう。
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